【「観る力」について考える】

我が国の伝統的言葉に「面授」というものがある。面授とは、仏教用語で「文章などで広く教えるものではない重要な教えを、師から弟子へと直接伝授すること」とコトバンクには書かれている。

ただし、一方で「群盲象を評する」という言葉が示すように、面授を受ける側の判断基準や感度(格闘技に対する)が低いと、大事なものを捉えることはできないと、私は考えている。また、少し話は脱線するが、権威ある対象のそばにいながら、その真髄を学び切っていない人間のいかに多いことか。更に言えば、大した権威でもないのに、権威だと思っている人間のいかに多いことか。こちらの方は、権威だとありがたがっている側の真意が疑わしい。あくまで私の経験による知見だが。

また私は、たとえ文章であっても、捉えられる者には、大事なものが捉えられると思っている。あくまで一般論として、「百聞は一見にしかず」ということが言えるだけだというのが、私の考えである。つまり面授を授かったからと言って、大事なことがわかっているとは限らないということ。また面授が望ましいが、面授にも「観る力」が必要だということを言いたい。

その「観る力」を養うことが稽古の本質であると、私は考えている。また、観る力の養成こそが、自己を進歩させる核となることだと考えている。

ここで、私がいう「観る力」についてさらに考えてみたい。

まず、先賢の教えを二つほど紹介したい。物事を見るということに関し、ある先賢は「見るよりも観ることが大事」と伝えた。つまり「見ではなく観だ」と。また、ある先賢は物事を見る際、ある先賢は物事を見る際、「なるべく長期的に見ること、次になるべく多面的に見ること、そして、なるべく根源的に見ること」と教えた(安岡正篤:陽明学者、思想家)。

【私流の観る力】

さて、私流の観る力とは何か?大まかに言えば、科学的に見るということである。いうまでもないことだとは思うが、科学的ということは反証可能性が担保されているということである。また、科学的ということに誤解があるといけないので、あえて断っておきたい。科学的とは、実は想像力をとても必要とする在り方だと、私は考えている。

つまり私流の観る力とは、「時空間を超えて、その評価に耐えうる考え方や技術を追求するということを前提に、仮説を構築する力」その上で「その仮説を実証しようと試み、その結果(実験・経験による結果)データを収集し続ける力」。同時に「その結果データと仮説を照らし合わせ続ける力」。また「結果データと仮説を照らし合わせ、仮説の瑕疵や不備を修正し続ける力」。さらに、それらの力を総合した力を観る力と呼びたい。ちなみに「その結果データと仮説を照らし合わせ続ける力」が、観る力の中で最も重要のように思う。なぜなら、その照らし合わせるという過程の中で「観る力」が養成されると、私は考えるからだ。

もし、私が考えるような観る力、すなわち真の見る力があるとすれば、観る力の養成には長い時間と努力が必要だということが理解されてくる。

つまり、データの蓄積が必要なのだ。しかし、ここで一人の人間が集めるデータなど高が知れているのではと考える方は、まともな方だ。ゆえに、賢人は過去のデータを収集し、それを自分のデータに取り込むことを行なっているはずだと、私は考えている。

その方法の最も伝統的な方法が読書であり、その道の師につき、師から学ぶことである。そのことによって、体系だった、ある種の仮説、そして知見を自分の中に取り込むのである。しかしながら、師の著した書籍を読むということすらしなくなっているのが、昨今の現状である。そもそも読書というものをしなくなっている。

もちろん、最近では、インターネットが普及しているので、そこから情報を得るということが主流になりつつあることは知っている。ゆえに、読書は必要ないと言われる人もいるであろう。しかし、読書ということとインターネットから情報を得るということとは分けて考えた方が良いと思う。

その意味は、情報を得るということだけが、読書の効用ではないと考えるからだ。例えば、心を込めて出版された、優れた書籍には、優れた映画にも似た、感動があると思っている。もちろん、すべての書籍にはあてはまらない。それでも、その感動をもたらす何か(原因、構造…etc)を体感、理解することが大事だと、考得ている(抽象的すぎるのをお許し願いたい。具体的に言い表すには次の機会に)。

一方、インターネットによる情報収集、獲得並びに発信はとても簡単で便利だ。しかし、その行為は「観る力」の養成がなされないまま情報量だけが増えるということになる可能性がある。また、そのことが意味することは、恣意的な情報が氾濫することと言っても良い。つまり、自己の仮説をしっかりと構築し、それに対し結果データ(自己の実証経験)と照らし合わせを経ていない情報が氾濫するということだ。そうなると、インターネツトという場(世界)、環境は、言葉に言い表せないくらい、恐ろしい情報の渦の中のような世界、環境となる可能性があると思っている。ゆえに、私はどんなジャンルの世界であれ、人間一人ひとりの「観る力」の養成を心がけることが急務だと思うのだ。そうしなければ、一つの情報で、暴力的な現象が起こることがあるかもしれない。

【最後に】

最後に、昨日始まった研究科では、講習開始後、20分ほどで、私の右脚が肉離れを起こした(軽度の)。ゆえに立っていられなくなり、椅子に座って指導となった。結果、予定した稽古の半分ほどしかこなせなかった。また、私の動きを見せることができなかった。言葉だけでは、データ少なすぎる。もちろん、観る力が乏しい者には、「猫に小判」のようなことだとは思うが。とにかく、彼らのイメージ力では無理がある。見ていてそう感じた。

大げさに聞こえると思うが、私は遺言を作成するのと同じ気持ちで、デジタル教本を作成している。それがよくないかもしれない…。また、それ以外にも雑用がある。また、表現は悪いが腐りかけの身体を腐敗しないようにケアし、腐りかけだからこそ出てくる、味(うま味)を追求している。

本当に百尺竿頭に一歩を進むが如くの毎日である。しかも、そのような気持ちでいればいるほど、「こんな程度にしか極められなかったか」と自分の未熟さに悔しさがこみ上げてくる。

 

 

備考

2017-9-10:一部修正