ジュニア昇段審査と空手コミュニティーについて

 

【S君】

先日、ジュニア昇段審査が催され、一人の昇段者が合格した。

小学5年生になるS君である。彼は5歳の頃から増田道場に通い、7年間以上空手を続けている。

最近は妹も空手を始め、S君はリトルクラス(幼年から3年生未満のクラス)指導のお手伝いをするようになった。担当の先生によると、いつもリトルのクラスのお手伝いとジュニアの稽古、あわせて2時間強も頑張っているそうだ。そして彼は、所属道場ではない私の担当する少年部にも通ってきている。

S君は体も大きくない。また、そんなに感情の激しいタイプでもないように見受けられる。ただ空手の技術に関して言えば、型も組手も上手な方だ。また体も柔らかく、上段廻し蹴りも上手く使える。しかし、私がみる彼の一番良いところは、その部分ではない。S君の良いところは、空手が下手で全然できない子にも丁寧に教えられるところだ。

「おっ、優しく教えられるじゃないか」彼の指導の姿を見てそう思った。私が初めて、その光景を見た時、普段の手抜きは「大目にみよう」という気になった。

今回、彼は型審査に合格しているので、組手審査のみを行った。普段、型の練習も頑張っているが組手が好きなようである。これまで試合にもよく参加してきた。昇段審査では、年齢やレベルに応じて三人から十人の連続組手を行い、その内容を審査する。彼は余裕で連続組手をこなした。試合経験の豊富なS君にとっては3人連続など、簡単な項目だったのかもしれない。

S君の審査内容は良い方だったとは思うが、私が感心したのは、組手の内容ではなかった。私が関心したのは、型と組手の他に審査項目にある、小論文(少年部は作文)であった。彼の作文を読んで私は、彼に対する評価を上げた。

なぜなら、彼がIBMA極真会館空手道の理念を理解し、かつ理念に沿った行動をしていたと思ったからだ。

「このような心構えなら黒帯を允可する価値がある」、私はそう思った。また、これから黒帯として精進を積みつつ、文武両道を心掛けていけば、将来楽しみだと思った。同時に、保護者の方が、しっかり指導しているなという感じがした。ゆえに、改めて子供にここまで空手を続けさせた、保護者の方に敬意を持った。また立派だと思った。更に言えば、空手にそこまでの価値を身いいだしてくれていることに、感謝と責任を感じた。

さて、脱線するが、S君の空手のレベルは、あくまで周りと比べて上手なだけであって、私はもっと上手くなると思っている。私はもっと丁寧に細かく技を覚えて欲しいが、そこまで厳しくは指導しない。少年にそこまでの要求をしないのが、これまでの私の道場の方針だ。というものの、時に私の指導は、より高度になることがある。

当然、子供と私の意思の疎通が空回りする。私は我に帰り、適度なレベルに調節する。もし、もっとレベルを上げたければ、お受験塾のようにならざるを得ない。しかし、そのようなことをやる必要が基本的には空手にはないと考えている。誤解を恐れずに言えば、もし私に余裕があれば、選手養成機関を担当してみたい気もする。しかし、今の空手界にそのような需要と価値があるとは思えない。一方の子供達も大変である。最近の親は、実に様々な習い事をさせるようだ。

おそらく、若い頃に様々な体験を積み、健やかな身体の成長を促すのみならず、心も強く豊かに成長させて欲しいという親心があるからであろう。非常に素晴らしいことである。

そんな思いに応えるとは、チャンピオンになれるような子供を育てることのみではない。私は試合の順位をあげるよりも、空手道で自尊心を育むことがより重要であると考えている。

【空手コミュニティーの中で】

私の道場における自尊心の育み方のポイントは、空手を共有する空手コミュニティーの中で自己承認の体験をさせることにある。

私のいう空手コミュニティーは、とても小さなコミュニティーかもしれない。しかし人間は、なんらかのコミュニティーで自己承認を経験しなければ、強く生きていけないものなのである。特に幼少期から思春期には、そのような体験が必要であろう。もちろん空手武道のコミュニティーに限ったことではないだろう。スポーツなどの部活動もそういう機能を持っているかもしれない。

断っておくが、ここでいう自尊心とは、空手が上手いということのみで獲得されるものではない。空手を通じ、自分が仲間にどのような貢献しているかを認識することで醸成されるものだ。言い換えれば、コミュニティーによる自己承認感である。

繰り返すようだが、私のいう仲間への貢献とは、「誰よりも上手いこと」により、みんなに刺激を与えることのみではない。

「誰よりも真面目なこと」により、その場に神聖さを醸成していること。また、「誰より明るく振舞うこと」により、皆を和ませることであっても貢献と言えると、私は考えている。

更に言えば、「目立たなくても、そこにいつもいること」により、その場に安心感のようなものを与えることも貢献だと思う。

もう一つ付け加えれば、「みんなより下手で試合も負けてばかりだけれども、空手を続けていること」も貢献のように思う。なぜなら、そのような者がそこにいるだけで、何らかの安心感を皆に与えているように思うのだ。もちろん、空手が上手な者の存在が、一番の貢献だという考え方もあるだろう。しかしながら、私はそうは思わない。そして皆に言いたい。

 

【もっとも大切なことは】

私は、コミュニティーには、確かにスター的な「空手の上手い者」の存在が重要だとは思う。しかし、もっとも大切なことは「皆で協力し、楽しく空手の練習をするという価値観の醸成」だと考えている。しかし、スター的な人間の存在は、そのコミュニティーの価値を高めることに多大な貢献はするが、一方で大切なコミュニティーの価値を忘れさせてしまうように感じる。

つまり私が言いたいのは、「貢献という価値」は、単一的な価値観で測るものではなく、多様な価値観で測るものだということである。そして、貢献を測る基とは、理念を核としつつ多様な個がつながりあって創出される、総体的な価値のように思う。かなり抽象的な話になった。平たく換言すれば、私のいう貢献を測る基とは、安心感の醸成と言っても良いかもしれない。要するに安心感を与えることが良いコミュニティーの核心だということである。しかし、そのような価値観を皆に理解させるには、指導者の指導力や信念が必要になるだろう、また子供に対しては、保護者の理解と協力がなければ困難が予想される。

蛇足のようだが、「いつもみんなと協力をせずに自分勝手にやること」にもなんらかの貢献につながる意味があるようにも考えられる。確かに観念的には、何らかの意味や貢献があると思いたい。大きなコミュニティーでは、そのように考えるべきであろう。しかし、小さなコミュニティーでは、そこまで包括すれば、そのコミュニティーの目標の実現ができなくなってしまう恐れがある。空手道場は小さなコミュニティーである。また、空手の上達や昇段という目標を前提としている。あまり多様な存在を認めては収拾がつかなくなる。ゆえに、そこまでのあり方を許容しない。ただ、道場の外では、なるべく大きな視点で人間をみたいと、私は考えている。

話を戻すが、審査合格発表の後、稽古でS君に会った時、昇段審査合格の労いと作文を褒めた。そして、頭によぎる経験上の知識があったので、S君に聞いた。「あの作文は親に手伝ってもらったの?」

S君は、「何を書くか決めてもらったのと、最後に見てもらった」と答えた。

私は少し「ガクッ」ときたが、親がしっかりと、我が道場の理念を理解していること。そして、書くことを考えてもらったと言っても、他のものより長い作文を丁寧に書いたS君は、やはり素晴らしいと思うことにした。

 

最後に、私は長年、空手道場を主宰してきたが、ようやく黒帯をもっと増やしたいと思うようになった。「今更?」と思う人が多いに違いない。若い頃の私は、適当に黒帯を允可することが嫌だった。現在も同じだが、ただ変わったのは、「みんなを黒帯にできないのは私の責任だ」と強く思っていることである。ゆえに指導方法などを見直し、なるべく多くの道場生が黒帯のレベルまで到達できるよう、カリキュラムや修練メソッドを改善したい。また、より良い道場を作り上げるには、何より指導員の協力が必要だと思う。私の指針は、道場を家、道場生を家族のように考え、共に力を合わせることだ。そして、命がある内に高いレベルの空手道の創出を果たしたいと考えている。

 

※S君の昇段審査の作文は空手武道通信の読者には閲覧できるようにページを作成したい。今後、昇段審査や昇級審査の映像をアーカイブし、閲覧可能にしたい。ただし、より良いものを目指すのにはコストがかかる。絶対、できるとは言い切れないので悪しからず。