この原稿は「増田章のからだで考える」(アメーバブログ)2015年3月8日に掲載されたものを、大幅に加筆修正をして掲載しています。

 

 

以下に、昨日の日誌に書いた、「型論」を掲載する。

この原稿は、2009年ごろ拙著「フリースタイルカラテ」の草稿を加筆修正したものだ。
 この原稿は、ボツとなったが…。

現在、フリースタイルカラテは、新しい武道スポーツという定義付けをし、
増田流の空手道とは一線を画している。それを前提に読んでいただければ幸いである。

また、資金があれば、この理論を具体的に証明したい。
残念なのは、私の家族のような極真空手の仲間に私の意図するところが理解されないことである。
私の願いは、極真空手の仲間たちの役に立つことだ。
アメーバブログより

 

型 論〜型とは何か?

一般論として型の考え方】

日本武道では「型」を重要と考えてきたが、フリースタイルカラテ拓真道における「型」の意義について述べてみたい。

日本古来の芸道を基盤とする、一般論としての型とは、理想的な動き(優れた技)の鋳型として考えられ、定義されている。私は、「優れた技」とは、ある目的を実現するための法則性、型を内在する手段ではないかと考えている。そのような観点を手掛かりにしながら、型(形・Kata)の本質とは何か、考えてみたい。

私が与する空手界を眺めてみると、型(形・Kata)の修練とその意義は、伝統技の継承、あるいは空手流派の宣伝手段(華法)という程度にしか扱われていないように見える。一方、私が空手競技の修練をおこなっていた時、型を将棋で言う手筋のように考えていた。すなわち局面における理想的な戦い方を習得するために型(組手型)を行ってきた。ここでいう型とは、空手の伝統的型ではなく、相対で行う型である。約束組手という流派もあるようだ。ただし、私が約束組手を行うとき、基本的な手筋の理解と習得という目的のみならず、原理原則の体得ということを意識し行なっていた。つまり、相手との様々な状況における最善の対応を行なうための原理原則を体得するということだ。

【組手における技と技のやりとりとは】

また、組手における技と技のやりとり(応酬)とは、「他者・外部からの働きかけに対し、型に則り、技で応答、交流する」という、一種のコミュニケーションと言っても良い構造を有していると考えていた。なぜなら、幼い頃、柔道を学んだとき、私が上達が思うように行かず、悩んでいたとき、柔道の嘉納治五郎の言葉を知ったからである。嘉納治五郎は型(形・Kata)を言葉における文法に、乱捕り(組手)を作文に例えた。

少し脱線するが、私は空手の指導をするとき、道場生に、「技(単技)は単語(英単語)を学ぶことと同じ」。「つまり、スペルを正しく、そして発音を正しく覚えること」。「約束組手は構文の基礎を学ぶことと同じ」と教える。さらに言えば、空手における構文と文法の学習とは、戦術理論を学ぶようなものではないかと教えている。だが、これまで教えた道場生を見てみると、私が教える約束組手を含む稽古を、そのように捉えているものは、ごくごく僅かか、いないかもしれないと考えている。ゆえに私は、この試論をおこなていると言っても過言ではない。

【「型の修練」の意義】

さて、私が構想する、フリースタイルカラテ拓真道においては、「型」及び「型の修練」の意義は、将棋における手筋の如く、「局面のおける最善の戦い方」を学ぶ手段。同時に「戦いにおける原理原則(理法)」を学ぶ手段でもあると定義した。さらに、型の修練を通じ、技の本質を体得し、相手と自己との対応状況における、対応力を創出・養成するためにあると、大目的を提示した。私は、そのような意識による型の修練による新しき型の創出は、新たな技の原理原則を発見する手段でもあると考えている。

ここで、私が考案した組手型(Kukitegata)の構成を見てみたい。組手型は、複数の技が組み合さって構成されているが、そこには「原理技」と私が命名した技が内在している。

【原理技とは何か】

「原理技」とは、複数の技を合成した組手型(Kumitegat)と異なり、それほど多くないかもしれない。しかしながら、「原理技」こそが、技を実効あるものとする要素といっても良い。私は、型の修練の意義を、型を媒介とし、自己の心身操作のレベルを「他者からのフイードバック」を通じ、再認識するところにあると考えている。さらに、自己の心身の操作のレベルを、より高次化すると同時に「原理技」の体得を目指すところにあると考えている。

「原理技」を含む組手型は、例えるならば、心身の操作における数学の方程式のようなものだと、組手型を構想した当初、イメージしていた。また、原理技は公理のようなものだと、考えたことがある。なぜなら、私が考える、優れた武術家のイメージは、複雑な局面を、自他一体の精緻な心身操作により、合理的に打開し、かつ、より善く局面を転化していく者だったからだ。ただ、その姿が数学者の姿とダブったのは、私がある数学者の生き様の映画を見て感動したのと、数学に関して、あまりにも無知であるからだと思うので、軽く聞き流してほしい。

それでは、ここでいう原理技とは何か。仮に、「原理技」とは「他との対応状況における、身体操作に内在する普遍性を活用した技」と言っておく。言い換えれば、「自他の関係性の中で存立する技」である。しかし、現実の他者との対応状況では、その関係性は絶えず変化し、一定ではない。ゆえに、他者との対応状況の中で、絶えず最善の技を駆使するには、その関係性における「理」を認識しなければならない。つまり、「原理技」というものは、動きの中で原理的に機能している要素を活用する技のことだ。動きの中で原理的に機能する要素の中には、眼に見えない心の働きも掛け合わさっている。ゆえに技を真に観るということは、あまりにも複雑で一般人には理解不可能かもしれない。しかし、意識を高めつつ修練を積めば、心身を用いた技の真の姿が見えてくると私は考えている。

【わが空手道における型の修練】

さて、ここで宣言したい。わが空手道における型の修練の究極的な目標は、「原理技」とその活用法の体得である。なぜなら、「原理技」とその活用法を体得した者は、多様な状況において、より善い技を再現できる可能性が広がるからだ。それが「術を体得した」ということに他ならなないと考えるからだ。ここで一つ断っておくが、私が考える型の修練は自我の世界に閉じこもる稽古ではなく、絶えず他者を想定し行うものである。なぜなら、原理技は他者との関係性において存在し、機能する技だからだ。

本来、行為・形態としての「技」は一回限りのものである。しかし、「術を基盤とする技術」というものは、千変万化する状況に対応し、あたかも、繰り返し最高の技が繰り返されるかのような錯覚を起こさせる。そのような術・能力の創出が「型の修練」の本来の目的である。

柔道では、「型」を「形」と呼称しているが、その意味合いは、私の云う「型」と同じであるかどうかはわからない。一方、わが空手界の「型」の多くは、残念ながら、皮相的な「型」と言わざるを得ない。また空手流派の中には、型(形・Kata)の稽古とともに約束組手や分解稽古などというものを行なうところもあるようだ。そのような稽古を併用して行う、型の修練は、私の考える「型の修練」に近いかもしれない。

突き詰めると、型の修練は「理想の形を創出するという目的」と「状況において実効性のある技術を創出する能力を養成する目的」のためにあると私は考えている。ここでいう「実効性のある技術」とは、理想の形と同一ではない。つまり、ある状況において実効性のある技術とは、一般人が観る形態的「技」のことではないのだ。それは、優れた技に内在する「原理技」と原理技を活用する「術」を指す。

【技の意味の理解力と予測力の高低が、対応する技の実効性を高める】

もう一つ述べておく。心身を共通基盤に相手と対峙する戦闘という状況においては、複合的な要因が絡み合い、絶えず状況は変化する。そのような中で「勝利」という状況を創り出すには、先ずもって、絶えず変化する相手の動きに普遍性を見出さなければならない。なぜなら、相手の「技(形態)」が完全に表出するより少し前に、その技の意味を理解、予測しなけらばならないからだ。つまり、技の意味の理解力と予測力の高低が、対応する技の実効性を高めるはずだ。

さらに言えば、武術家には、相手の技に内在する「普遍性」を、いち早く察知、認識する能力が必要である。また、「原理技」を充分に活かし、合理的かつ最小の動きで対応する能力が必要である。そのような能力と高い技術は一体的である。一方、華美な動きは、最小の動きではなく、相手を心理的に圧迫する、脅しや騙しという目的の囮技としての役割は果たすが、応用力は低く、高い技術とは言い難い。ゆえに武術を手段として、武道を修行するものは、単なる形態としての技を追求することに止まってはならない。まず以って、高い技術が生み出される構造の認識を目指さなければならないと、私は考えている。

また、私がここでいう「高い技術が生み出される構造の認識」とは、目に見える技の形を見るだけではなく、見えない技とその型(構造としての技)を認識することである。補足を加えれば、技が生み出される状況を構造的に理解することである言い換えれば、他者を知ることと共に自己を知ること。また、その関係性を理解すること。さらには、勝負という概念を見直すのみならず、人間の全てを見直し、考察することでもある。

【武道哲学

ここで私が思い描く、理想の武道家について述べておきたい。理想の武道家とは、技術を究め尽くすことにより、自己の技を真の技に、すなわち、技を普遍の技術とするために、その努力を惜しまない。それは、決して天才の道というものではなく、あくなき自分への挑戦である。

古書を紐解けば、我が国における、古の武道家は、技と心が一如と考えた。そして、「心法」として、技の追求とともに重視したようだ。ここでいう心法とは、武道流派によって、多少の違いはあるにせよ、大体、自然の道(天地自然の理法)と人間の道(人の道)の両方を踏むものである。フリースタイルカラテ拓真道とは、その日本武道の道統を受け継ぐものである。ゆえに、その追求するところは、天地自然の理法と人間を探求する道と言って良い。それを現代流に言い換えれば、「武道哲学」となるだろう。

【真(ほんとう)の身体(からだ)を活かすこと)】

最後に、私が考える型の修練は、「自己の真の身体を活かすこと」を目標としている。また、真の身体とは、技と心を統合する基盤のことである。また、基盤としての身体は、我々が生活の中、社会の中で、ある種のルール、プロトコルのようなものを基盤とし、プログラムされた組織である。私が考える拓真道とは、先述したような意味合いでの、身体をより善く作り変えていくこと(リプログラミング)への挑戦でもある。

 


  • 2009:一部加筆修正
  • 2017-7-13:一部加筆修正
  • 2017-7-15:一部加筆
  • 2017-7−21:一部修正