無形の媒介物〜人間を幸せにする武道(空手)

【序文】

拙論のテーマは、新しい武道スポーツ誕生の鍵概念、試合形式のTSスタイルとは何か?です。すなわちTSスタイルのプレゼンです。その誕生の肝になったのは、人間を律しつつ、一つの目標へ向かわせる無形の媒介物の創出と言うことでした。

私が言う無形の媒介物とは「理念」に基づいた「判断基準」と言っても良いものです。私は、京セラの名誉会長である稲盛和夫先生の門人です。稲盛先生は、まず我々門人に理念の重要性を説きます。今回、その理念についての理解が足りなかったことを、新しい試合形式を考案する中で気づきました。それは、稲盛和夫先生の説く理念とは、その「理念」を具現化するための「判断基準」とセットになって初めて機能するということでした。

会社の経営理念は、大体、「世のため人のため」という社会貢献、他者貢献という思想に収斂されていくと見ています。なぜなら、企業が存立するのは、社会と人に有益であればこそですから、至極、当然のことです。

問題は、その上で「理念」に基づいた、より普遍的かつシンプルな「判断基準」の設定ができるかどうかです。また、そのようなことが社員に対し、どのような効果を発揮するかを、経営者が認識できているかどうかです。つまり「理念」とそれに基づく「判断基準」とは、無形物でありながら絶えず人の心に働きかけ、人の心を律します。その限定が、深く心に作用すれば、叡智とも思えるアイディアが湧き上がることもあるのです。その様なことが個々が経営者たる、変化に強い企業体には必要なのです。

 

また、企業経営ならずとも、剣道においても「剣の理法」に基づく「判断基準」としての「有効打突」が規定されています。要するに、剣道は「有効打突」という無形の媒介物の創出によって、試合におけるゲーム性を制御し、武道性を維持しているのです。

もちろん、剣道に試合に批判的な人達がいることを聞いています。また私自身は、剣道の試合を行ったことがありません。しかし、私には、その”志”が明確にイメージできるようになりました。そして、剣道においては、試合における無形の媒介物が理念の延長となって、作用しているのです。

企業の話に戻すと、言うまでもないことですが、稲盛和夫先生の説く理念は、単なる企業イメージの向上のためのスローガンとして存在するものではありません。なぜなら、京セラには。その理念を具現化するための、シンプルながら本質をついた「判断基準」が存在するからです。

さらに、私が感じたのは、稲盛先生には、想像を絶する企業経営の中、叡智を湧出させるために、たえず「理念」とその「判断基準」に照らして思考するという、日々の営為があったものと拝察します。さらに言えば、稲盛先生が「理念」に基づく「判断基準」を全従業員(社員)に共有させたことの効用は、「理念」に基づく「判断基準」いう無形の媒介物が、卓球やテニス、サッカー、ラグビーにおけるボールゲームのボールのように機能することです。要するに、ボールの代わりをする無形の媒介物が社員と社員の間をつなぎ、そのコミュニケーション能力を向上させるのです。さらに、その機能により、組織体を構成する一人ひとりの能力が向上するのです。

 

ただし、組織の構成員にボールゲームに参加するアスリートの様に、反則行為を除く、プレイの自由度を与えなければなりません。そこが、年功序列や上下の意識が強い日本の組織体における弱点ではないかと思います。また柔軟な活動の妨げになっていると、私は見ます。

おそらく、その様な面でも京セラにはシステムが整っているのでしょう。ゆえに組織全体の機能が活性化し、より高次の仕事が可能になっていったのだと思います。

今回、私が新しい試合形式を考案するにあたり、その「理念」と「判断基準」いうものの重要性を空手家のレベルで再認したことを記しておくために拙文を書いています。以下の拙論で伝えたいことは、IBMA極真会館試合規約にある「クリーンヒットポイント(意義があると認識される、限定された部分への意識」)」と京セラにおける「理念を具現化するための判断基準」、剣道における「理念を具現化するための判断基準としての有効打突」と同義であるということです。実は、そのことをTSスタイルの試合規約がほぼ完成してから気づきました。

ここで一旦、フリースタイルやTSスタイルの試合形式の考えるにあたり、数十時間もの思考実験に付き合っていただいた大森氏、荻野氏に感謝したいと思います。いつもありがとうございます。また、今回の原稿に関しては、道場生の福岡氏の見解が参考になりました。彼は柔道4段、柔術4段、空手2段、その他、古流剣術や槍術、手裏剣術まで、武芸十八般を目指す、現代の武人です。また生物学者のレールから外れ、さらに大企業の研究所のレールからも外れた、変わり者です(失礼)。私は、そのような我が道を行くが如しの感がある、福岡氏が弟のように好きです。なぜなら、かくいう私も同様の人間だからです。腰痛が少し改善する中、いつものように取り憑かれたようにPCに向かいました。以下、拙論を掲載します。

【第5回全日本選手権の決勝戦】

僭越ながら、極真空手の第5回全日本選手権の決勝戦における、山崎照朝師範と盧山初雄師範の試合を見ると、しっかりと間合いを取り、一打一打をゆるがせにせず、試合を行っていました。あえて言えば、私は両者の試合を勝敗とは別の次元、観点から見ています。そこには、私の試合理論でいうところの「無形の媒介物」の共有が見て取れます。同様の観点から、空手に先駆け、武術に試合形式を用いた、剣術(剣道)にも、真剣という武器を扱うことを前提とした試合ゆえの「無形の媒介物」、すなわち理念の共有が見て取れるのです。

ここで空手の歴史を大まかに考えて見ます。武道というには、組織的にも体系的にも貧弱だった沖縄の武術が先人の大変な努力と時代の要請により、本土において組織的にも拡大していきました。戦前の武徳会の影響もあり、一般の人たちや、学徒の教育に空手の修練が生かされるようになっていったのではないかと、想像します。その後の本土における空手道の発展は言うまでもないことでしょう。私が着目するのは、本土における空手発展の黎明期、組手は剣道と同じように、「無形の媒介物」の意識が存在し、相手との間合い、そして一打をゆるがせにしない組手を行っていたと思われます。

ただし試合形式に寸止め形式を採用し、選手が増え段々とスポーツ化していく中、理念に基づいた判断基準が曖昧になっていったように想像します。また、打突を防具に思い切り当てる剣道と異なり、寸止めであることから技の判定に誤審の可能性が高まるということもあるかもしれません。審判の眼が優秀ならばと問題ないと思うでしょうが、現実はそう簡単ではないようです。ゆえに極真空手のような直接打撃制が誕生し、急成長したのでしょう。そのあたりは、いずれしっかりと資料を調べ、検証したいと思います。

 

そのような空手道の発展の過程の中で、直接打撃制を掲げた極真空手は邪道、異端児と嘲笑されました。それでも、元々は同じ空手です。黎明期においては、伝統的な空手道の趣、形態を残していました。その形態がガラリと変わった分岐点があるように思います。

言うまでもなく、すべての物事は変化します。その変化の原因を述べるのは、本論の主旨ではないので省きますが、大体、真理であろうと思います。だからこそ、変化の波に流されずに、上手に波に乗り、それを活かしつつ、自己の存在意義を維持しなければならないと思います。万物が流転する現実の中で、我々人間が意識しなければならないこと。それは、人間が他者に肯定されるよう、人間の存在意義を高めて行くことです。かなり抽象的ですが、我々人間を生かしめているのは、人間のみではなりません。無数の存在、無数の働きが宇宙にあり、それによって生かされているのです。

私は一介の空手家ですが、人間がこれからも力を合わせ、叡智を湧出させて、人類を存続して行きたいのならば、何が一番大切かを問い続けなければならないと思います。「何が一番大切か」、私がいつも自分に問いかける命題です。そして、「あれとあれと…」「そんなの決められない」「みんな大切だと」なり、心をさらに問い詰めます。「そんなことを考えるのは、お前のような暇人しかいないよ」と周りから思われているに違いありません。しかしながら、私がどうしても納得できない人生を自分の責任だと思いながらも、何かもう一つ、納得する物を掴みたいのです。そのような物も形のないもの、無形物かもしれません。もしかすると、無形物と思われているが、思考の中から現れてくる何かに、真の事柄があるようにも思います。

【心眼〜試合形態が大きく変化した分岐点】

さて、極真空手の試合形態が大きく変化した分岐点があります。それはある有力な選手の登場と勝利から始まりました。そのように書くと、その選手が極真空手を変化させたと、私が考えていると思われるでしょう。私の立場はそうではありません。なぜなら、その様な選手の登場と勝利が、本当にその選手のオリジナルかどうかを、まず検証しなければならないということ。

また変化というのは、社会的な変化も含め、その各時代の社会システムや社会のあり様から起きる事柄だと考えるからです。さらに言えば、その社会システムの中核は価値観だろうと、私は思っています。それは我々のような大衆の価値観、そして権力システム、さらにメディアの喧伝が大きく影響します。ゆえに、極真空手の試合形態の変遷も、大きくいえば時代背景とその要請、大衆の価値観、メデイアの喧伝によって形作られてきたのです。

以下に簡単に極真空手の試合形態の変化について述べて見たいと思います。私の分析を否定、批判する向きもあるに違いありません。しかし、すべての変化は我々人間の価値観とその変化によってなされるのです。そして、その価値観の本質が「眼」なのです。ゆえに武芸者、空手家の私は、その眼を鍛えることに、多くの現実を犠牲にしてきました。それは孤独に耐えることでした。そしてその果てに、皆の「心眼」がいつか開くことを、愚かにも念願しているのです。

【極真空手の試合形態の変遷】

さて、極真空手の試合形態の変遷について私の見解を述べたいと思います。極真空手の試合形式においては、相手に技を効かせて倒すことが難しいという点が現実的に、理解されてきました。そして、その現実を利用するかのような戦術が生まれてきたことが、極真空手の組手試合の変質の端緒です。そして、私がいうところの無形の媒介物であった一撃必殺の理念を基盤とした判断基準の崩壊が始まったのです。

さらに平たく言えば、一撃で倒れない、かつ倒せない現実を見て、その現実により有利な戦術が創出されたのです。具体的には、「相手に攻撃技を数多く当て、ダメージを与える」。次に「手数を多くし相手に反撃の間を与えないようにする」さらに「手数やフットワークで審判の主観に、「負けてない」という印象を与える」。大体のそのような戦術です。そして、そのような戦術を駆使するための稽古法は、ランニング、ジャンピングスクワット、打たせ稽古など、持久力の強化、また相手の攻撃を受けてもダメージを受けない、打たれ強さの養成が主になります。技術練習が皆無ではないでしょうが、先述したような戦術を採用すれば、当然、技術よりも体力面の強化が主になって行くと思います。私はそのような稽古法や戦術を全否定はしません。格闘技において体力は必要条件です。

しかしながら、空手伝統の一撃必殺という真剣勝負の意識、またそのような意識を排除することにより、だんだんと技術のやりとりから乖離していき、体力と情念のみを頼りとする試合に堕していく可能性が広がって行くということです。極真空手で採用された「体重判定」という価値観も、先述したような何が何でも「旗判定で勝つ」、そして審判の技量や試合方式の現実的な不備を利用した戦術の一種なのです。「体重判定で勝つ」「旗判定で勝つ」ために優先される戦術の内容とは、先述した「相手に攻撃技を数多く当て、ダメージを与える」「手数を多くし相手に反撃の間を与えないようにする」「手数やフットワークで審判の主観に、「負けてない」という印象を与える」などです。そのような内容により、試合における優位性を審判の主観に訴えかけ、引き分けに持ち込み、体重判定で勝つ。大体そのような戦術です。

少し脱線しますが、私は幼少の頃の経験により、実は30代の半ばまで心理的外傷がありました。そのため、時々、嫌な夢を見ました。ハードトレーニングは嫌な夢を見ないための、私の処方箋でもありました。その経験により私は、先述したような人の評価を懇願するような判定方法や姿勢が、とても辛く、非人間的なことだと、考えています。おそらく、普通の人にはわからない感覚だとおもいます。極端に単純化して言えば、器量の悪い人間が美人コンテストの基準で審判される。そんな感覚をいつも10代の頃から感じていました。単純化しすぎだと批判する人は、人間社会に今も巣食う、そのような判断基準に鈍感なだけです。しかし、一度で良いから、他者の主観により否定され、仲間はずれにさせられた経験がある人には、想像できると思います。

【当時を回顧すれば(極真空手の第2次発展期〜最盛期を振り返って)】

話を戻して、当時の極真空手の状況を簡単に回顧したいと思います。私は石川県で極真空手を始め、その後、大阪で修行し、さらに東京で山田雅俊師範率いる城西支部で、道場を任されていました。山田師範の教えは、相手の攻撃をしっかりと受けるというものでした。その考えは、私が石川支部時代から引き継いだ意識です。

また私は10代の頃、石川支部の先輩で、空手の天才と誉れの高かった、水口敏夫先輩と組手稽古を繰り返していました。その中で、なんとしてでも完璧な防御力を身につけなければならないと、受け技の大切さを強く植え付けられました。なぜなら、水口敏夫先輩は、相手の動きを見切り、技を当てるのが上手かったからです。しかし、城西支部のスタイルに批判的な他の道場では、下段などを受け必要はないと教えられていたようです。つまり、下段回し蹴りを受ければ、それだけ身体の軸は崩れ、反撃も遅れる、ということではないかと思います。そこにすでに勝つことの最先端を追求するという、勝利至上主義(勝負偏重主義)の萌芽が見て取れます。

そこには、かつてあったと思われる「一撃必殺という理念」はありません。またその技術の基盤である「眼」そして、武道人としての高い「志」もありません。すなわち、当時の極真会を支配しつつあったのは、試合に勝てば官軍という意識だったのではないかと思います。言うなれば、勝利至上主義が支配していたのです。

【老年になっても仲間と剣(拳)を交えること】

しかしその意識は、間違いだと断言します。その理由について述べるのは別の機会としますが、大まかにいえば、確かに”勝利”という果実を想定するのは、人を動かすインセンティブにはなります。しかし、そのプロセスにおいて、自己と他者との深く、高いレベルでの成長がもたらされるものでなければ、それは、単なる博打、勝ち負けになって行くということです。補足すれば、一方、人生は予測不可能です。ゆえに決断という行為が博打的に見えることがあるかもしれません。確かに、見る前に跳ばなければならない様な状況があるにしても、その決断がもたらしたことをより正確に分析しなければならないと、私は考えています。たとえ、その答えがいくつもあり、人間の能力では、どの答えが正解かを決められないとしてもです。私は、試合に中での自己の行為を分析することによって、その技術と人間性が、より深まり、高まるものだと考えています。その行為を行わないこと、中途半端にしておくことが、単なる勝ち負けで終わること、と表現しているのです。

かくいう私もそのような極真空手の意識並びに試合法の流れに飲み込まれて行きました。当然、そのような試合法に合わせざるを得ません。それは、とても苦痛でした。もし、もっと良い試合法があれば、野球選手のように40歳、50歳になっても試合を行っていたかもしれません。私は、剣道のように60歳、70歳を越える老年になっても仲間と剣(拳)を交えること(組手)が可能となる空手を構想しています。空手家の中には「老年になれば、組手は必要ない」「型の稽古のみで良い」という様な考えもあるでしょう。一面では、その考えに私も同意します。しかし、それは相手を痛めつける、相手にダメージを与えることを、判断基準にしている組手の場合です。その様な意識の組手は、若い時の一時期、経験すれば十分です。一方、型(形)の稽古は、武道人である以上は、生涯必要だと思います。しかし、あえて言えば、型は独り型のみならず、相対型(組手型)の稽古と併行して行わなければ、その深奥には至らないと断言しておきます。それを理解した上での独り型の稽古のみが、究極の形稽古となるのです。

蛇足ながら、空手の試合には、「生き死に」で決着をつけられないが故の、極めて政治的な勝負の姿が見て取れます。それは人間の社会活動における本質とも言えるかもしれませんが…。私は単なる勝ち負けとスポーツは異なると考えています。高次のスポーツとは、権力に左右されることなく、人間一人ひとりの深い了解と納得が前提となっているものです。そのような行為こそが、人間の心を解放する役割を担うのです。

私の言う「人間の心を解放する」とは、単なる快楽の追求を指すのではありません。その本質は、自分という壁を乗り越えるための手段です。蛇足ですが、それを薬物に頼ってはいけません。たとえ、生きるということが苦しみの中にあると思えても、それ自体が心の壁だと知ることです。その様な心の壁を軽々と乗り越える、真の心の強さ(抽象的なたとえですが…)を引き出すことを、私は「心の解放」と言いたいのです。

【100人組手挑戦の意味】

 

私には、納得のいかない試合判定に煩悶する中、試合に対する意識が大きく変化して行くのを実感の経験があります。当時の私は、全日本選手権と世界選手権に10代の頃から10回ほど出場し、その中で極真空手史上最強と思われるような選手や極真空手の組手の強豪との修羅場を数多く経験していました。その中で旗判定の勝利を目指すことしかできない自分に疲れ切っていました。

その時、私の中に「組手の質を転換するのだ」という意識が芽生えたのです。それが100人組手への挑戦の意味です。具体的には、一打の効力を限界まであげるための見切り、そして増田流の後の先である”応じ”の技術を駆使し試合を行うことです。しかしながら、その試合レベルを審判や他の空手家は理解できなかったと思います。決して強さの追求ではないのです。また、心の修練という様な抽象的な言い方で語りたくはありません。一言で言えば、意識の変革のための修練です。また「心眼を開く」ための修練です。

【「あきらめない」という信念とは〜個の尊厳】

  再度、極真空手の試合の歴史を振り返ります。極真空手の絶頂期の前あたりから、「旗判定」に勝利するために、打たれ強さを基盤に、相手より手数を出し続ける、そのような戦術が生まれました。そして、それが極真空手の試合の典型的戦術になって行ったのです。しかし、その姿は、自他がともに高まり合う姿ではなく、他者より自己が優れているという意識、そして他者との勝利に拘泥する姿です。そのような人間の情念が現在の空手界を形作っているように、私には見えます。さらに言えば、そのような勝利至上主義的な指導者たちが掲げる、打たれ強さ、手数、さらに言えば、そこから派生する「あきらめない」という信念は、全否定はしませんが、私はもっとも不幸をもたらす信念だと考えています。

なぜなら、極真空手の試合における「あきらめない」という信念とは、人類の闘争の歴史に見られる”人命”や”個の尊厳”を軽んじる価値観に繋がっているように思えるからです。また戦史においては、無理な戦術を正当化する常套句のように使われてきたと、見ています。

私がTSスタイルという試合形式、通称“ヒッティング(Hitting)”に込めた思いは、”個の尊厳”を最も重いものとして考える思想に立脚しています。それはTSスタイルに先駆け構想した、フリースタイルカラテに込めた祈りをTSスタイルにも引き継がせたと言っても良いでしょう。

ならば、真(ほんとうの)の「あきらめない」という信念とは何か?そして、真(ほんとうに)の「あきらめない」という信念は、「内発的な人間の良知と共振し合う希望」ではないかと、私は考えています。換言すれば「人間は希望がある限りあきらめない」ということです。そして、すべてのジャンルで必要なリーダーの最も重要な役割は「人が希望を失わないようなシステム(社会システム)」を作り上げることなのです。

【空手道の原点に回帰するのに有効な手段】

格闘技の試合においては、相手を倒すという共通目標があります。そして、そのための典型的戦術は、相手にダメージを与える戦術を駆使するというのが打撃系格闘技の宿命だと思います。しかし、私はそのような目標を一旦、奥の間(奥伝)に封じ込めます。

かつての私は、すべての格闘技の普遍的理念を考えました。そして、その解を「相手の戦闘力を奪うこと」としました。そして、その理念に基づき、打撃技、投げ技、倒し技という「判断材料」を試合に加えました。それが「フリースタイル(カラテ)」という試合法です。しかし、判断材料の質を上げるためには労力がかかり過ぎるという問題点がありました。ゆえに、再び原点に立ち返り、判断材料を打撃技に限定しながら、その質を高める試合方法を考案したのです。

フリースタイル空手は組手型の修練を通じ、道場生には教えますが、一旦立ち止まります。そして、TSスタイルの試合法と組手法を基盤とし、打撃技の質の向上が見られた時点で再開したいと思います。言い換えれば、極真空手をオリンピックスポーツに変えるというような大きな理想を一旦傍に置きます。

要するに、空手道の原点に回帰するのに有効な手段が、TSスタイルという試合形式なのです。その内容は、理念に基づいた判断基準(判定基準)を明確にし、その理念を具現化するための「判断基準」を、媒介物として了解した自他が試合を行うということです。フリースタイルを再開するにしろ、理念を具現化するための「判断基準」を了解し合うという基礎がなければ、烏合の衆となるに違いありません。

私はTS形式における判断基準を採用した試合の方が、IBMA極真会館の理念の具現化に良いと思います。また、それを優先させた方が増田空手の礎になると考えます。なぜなら、TS形式とその判断基準は、自他の行為を可能な限り明確に分析し、次の成長の糧にできるからです。私は勝敗ゲームを通じ、それを行う自他が共に成長していくには、負けた原因が明確に理解でき、そして納得できることが最低条件です。それが明確でなければ、敗者のみならず勝者の人間性もゆがんだものになると、私は直感しています。

【総括】

拙論を総括すれば、極真空手の試合の歴史では、極真空手の絶頂期の前あたりから、旗判定に勝利するために、打たれ強さを基盤に、相手より手数を出し続け、審判の印象を重んじるような戦術が生まれました。そして、それが極真空手の試合の典型的戦術になって行ったのです。しかし、その姿は、自他がともに高まり合う姿ではなく、他者より自己が優れているという意識、そして他者との勝利に拘泥する姿です。そのような人間の情念が現在の空手界を形作っているように、私には見えます。

さらに言えば、そのような勝利至上主義的な指導者たちが掲げる、打たれ強さ、手数という要素は、格闘技的な強さには必要条件です。しかし「理念」に基づいた「判断基準」を媒介物にして自他を向上せせる、すなわち空手で言えば、技術を向上させていくこと。また、その技術を理念に基づいて、審判していくという面からみれば、勝利至上主義と思える思想に傾いていくように、私は思います。ここで私が本当に言いたいのは、極真空手のみならず伝統派の空手でも、野球やサッカーのように敗けた原因が明確に分析できないことです。同時に勝てなかった理由が了解できないということです。はっきり申し上げて、「判断基準」が曖昧なのです。

これまでの極真空手の試合形式では、理念を具現化するための判断基準に矛盾がありすぎます。換言すれば、理念と判断基準のカップリングが間違っています。また、最強の〇〇とかいう形容をシステム、つまり試合形式の形容に使用することは、間違いだとTSスタイルの考案により再認識しました。

おそらく、最強の〇〇は何らかの試合形式の中、長年のデータ蓄積の中で、導き出されるパターンに対する評価、あるいはそのイメージを表する言葉でしょう。しかし。そんなパターン評価やイメージを絶対視していたら、それがある状況では最弱のパターンになるかもしれない。それを理解しななければならないと思います。また、理念と判断基準の組み合わせが間違っていたら…。永久に理念は具現化されないということはいうまでもないことです。もし、永続的な発展を望むなら、そのような状態は、絶対に回避する必要があります。

ゆえに、空手にとって何が一番大切か?再度考えて見たら良いと思います。極真空手の創設者の大山倍達先生は、「孝を原点に他を益する」という理念を掲げました。一方、修練者を鼓舞するためか、流派の宣伝のためか、はたまた両方の目的か、地上最強というようなキャッチコピーも用いました。しかしながら、その辺は交通整理をするべきです。理念は素晴らしい。しかしながら、それを担う空手家のレベルを検証するべきです。また、それを具現化する方法と判断基準があるのかと自らを振り返るべきです。当然、それは私自身に向かって問いかけていることを理解しています。

今、「他を益する」というのならば、もっと他を尊重できる判断基準を設けるべきだったと、私は考えています。もし、私の考えを、大山先生に伝えれば、逆鱗に触れ、私を破門にするでしょうか。その可能性はあるでしょう。あまりにも出すぎた意見だからです。だからと言って、私の意見が極真空手をダメにするかどうかはわからないと思います。むしろ、大山先生の考えにご追従し、その恩恵だけにすがる弟子ならば、いづれ極真空手を腐敗させるに決まっています。私なら、命がけで大山先生を説き伏せます。もちろん、了解には相当な時間が必要だとは思いますが…。また私は、破門されても、必ず私の意見をいつかは取り入れるという自信があります。なぜなら、フリースタイル空手の修練というのは、大山先生のわかりし頃の修練方法と同じです。また続・秘伝極真空手にあるような極真空手の現代バージョンなのですから。また、TSスタイルは、大山先生も修練した伝統的な空手の意識を取り戻す、ソフトウェアなのです。

さらに言えば、極真空手のみならず空手道とはOS、すなわちオペレーションソフトであり、私の空手はそのソフトウェアなのです。ただし、少しだけ、OSのバージョンアップをして欲しいのです。門下生のスペックは十分にあります。あとは、ハードウェアを有する組織のリーダーの判断力と決断力なのです。

【人間を幸せにする武道(空手)】

ここで私の考案した「キョクシンスタイル」と「フリースタイル」「TSスタイル」の役割について述べたいと思います。3本立て、3部作です。つまり、3つに繋がりがあり、かつ役割があります。具体的には試合規約を見てください。その違いを一つだけあげれば、「キョクシンスタイル」には、旗判定を残していますが、「フリースタイル」「 TSスタイル」には、「旗判定」はありません。しかし、すべての試合形式の技判定の基準を明確に規定し、それを得点化しました。もちろん、多少の誤差はあるかもしれません。しかし、判断基準を明確にすることによって、後から敗因を明確に分析できます。ゆえに、もし判断基準自体に瑕疵があった場合は、判断基準を改善すれば良いのです。私は、TSスタイルの試合に参加する道場生には、「自他を幸せにする空手(武道)」の追求を一緒に考えていただきたいと思います。そして、理念と判断基準を合意しつつ他者と交流すれば、自他を理解し、尊敬できることが可能となると言うことを体感してほしいと考えています。

補足というよりは蛇足ですが、私は今「人間とは何か」ということを考えています。手がかりは「人間とは生活という行為により、自他の認識を少しづつ高次化していくことにより生まれた意識と身体」という定義です。しっくりこない感じはしますが、私の直感です。つまり、先述した「自他を幸せにする空手」とは、空手の試合という行為により、自他の存在を肯定できるような意識を醸成するということに他なりません。また、ここでいう高次化とは、全ての存在を肯定できるような包括的な境地を目指していくことと言っても良いでしょう。以上は、一介の空手家の哲学です。一笑に付して構いません。ただ私の体験からは、そんな風に思えてきます。ゆえに「自他を幸せにする空手」とは、「自他の認識を少しづつ高次化していく空手」であり、それは「人間を幸せにする空手」とも言えるのです。

なぜ私が、ここまでいうかと言えば、空手を他者との主観的な対立からの解放、そして相手を痛めつけることによって、自己が評価されるという宿命から解放させたいと考えています。それが私の本当の願いなのです。そして、そのことが実現すれば、空手によって交流した自他が、互いの存在と関係性の中で、幸せを掴み取っていけると思うのです。 私は今、TSスタイルの試合形式を「キョクシンスタイル」「フリースタイル」の基本修練の手段としたいと考えています。その意味は、TSスタイルは、初級者から高段者まで、少年から老年までが継続して行える試合形式です。その方法は、ルール(試合規約)を覚えてしまえばれ、いたってシンプルです。それは通称にも表れています。TSスタイルを子供や初心者に伝える際は「相手に正確に突き蹴りを当てるだけ」と教えます。ゆえに通称を「ヒッティング」と言います。言ってしまえば、とても単純な試合法かもしれません。その試合法の目標を「人間を幸せにする武道(空手)」としようと考えています。なぜなら、これまでの空手は、真剣にやればやるほど、人と人とを仲良くさせない空手だったと思います。そのことについては、軽く触れるに止めます。皆さんの心の中に聞けば、必ずや私の言っていることが理解できるはずです。

目標を達成するためには、空手ならびに試合を、それを行う者の人生を楽しむための道具(遊具)とすることが必要だと、私は考えています。なぜなら、私は人間の営為の構造を一種の遊び、そしてゲームと見ています。また、人生を切り開くキーポイントは、そのゲーム性をいかに捉えるかだという直感があるからです。そのことに関して、いつかまとめたいと思っています(誰も望んではいないとは思いますが)。もちろん、ゲームをしながら喧嘩もするかもしれません。ゲームを通じて好きになれない人もいるに違いありません。しかし、私が考える空手を道具とするゲームの理想は、本来、どうしても嫌いな人だったにも関わらず、ゲームを通じて尊敬の念が生まれた。そして好きになった。そんな現象をゲームによって起こしたいのです。それには理念とそれを具現化する判断基準がシンプルであっても、その中身のプログラムが詳細にできていなければならないと、私はイメージしています。これは私の妄想癖のパターンです。誰も信じないでしょうが、幼少の頃から、考えを深めていくと、どうしても人類社会が平和になるためには、という様なことに結びつけて考えてしまいます。その癖、人と付き合うことに疲れ、人が嫌いになっている私がいます。そんな私の様な人のためにも、もっと良い試合システム、言い換えれば、人と人との交流システムを創出したいのです。

最後に、増田空手の理念とは「武術の修練による心身錬磨を通じ天地自然の理法を学び自他一体の道を修める」です。武術の修練とありますから、伝統的な極真空手の修練にある、組み技や逆技や武器術の修練も行います。ただ、組手は、相手と共に技術を磨きあい、空手道を高め合う手段だということを認識すること。そして私は、「見果てぬ夢」として、「相手と打ち合い、蹴り合う空手」ならびに試合が、「相手と認め合い、友達になる手段」となるようにしたいと考えています。また現時点における「何が一番大切かという問い」に対する私の直感は、「個の尊厳を護る」ということです。まだ、論文としては未完成です。また、私の心身の具合は良くありません。少しでも早く、広い世界に存在する同志に届くように、またそのことを信じて、この拙論を掲載しました(増田 章/斃而後已・礼記より )。

追記:2018-4-3

「クリーンヒットポイント」とは試合規約には、当初「クリーン・エフェクティブ・ポイント」となっていました。つまり「有効打」です。しかし、長すぎて舌を噛みそうなので、「クリーンヒットポイント」としました。

これは、ポイントを点数のポイントではなく、当てる目標のことを指すと言う意味合いで使っています。気をつけなければならないのは、「クリーンヒットポイント」のポイントの意味を点数の意味で捉えること。また、当てれば点数が獲得できると、浅い意味で捉えることです。つまり、TSスタイルの試合形式における競技の着眼点は「相手にどれだけ打撃技を的確に当てるか」という点を競い合っていると考えてください。

このことは、審判員の講習などの際、試合規約を見せ、判断基準の概念と思想をしっかりと伝えなければならないと考えています。

 

  • 2018-4-2:なんども加筆修正しました。
  • 2018-4-4:加筆修正
  • 2018-4-5:加筆修正