【型につての一般論】

日本武道では「型(形)」を重要と考えてきた。ここでフリースタイルカラテ拓真道における「型」の意義について述べてみたい。日本古来の芸道では、「形(型)」とは理想的な動き(技)の鋳型として考えられているようだ。つまり、「型」とは理想の技を再現するための法則性を内在し、それを伝達する手段とも言えよう。以下、形(型)についての私の考えを述べたい。断っておくが、私は形に関する持論から、「型」と云う言葉を使う。

現在の空手においては、型の意義は伝統技の継承という程度にしか考えられていない感がある。私は、組手競技の選手だったころ、型稽古(修練)を将棋で言う手筋、すなわち組手の一局面における、理想的な戦い方を習得する手段として行ってきた。ここでいう型稽古(修練)とは、空手の伝統的型ではなく、相対で行う型である。約束組手や組型という流派もあるようだ。また、型には基本的かつ形式的な手筋の理解と習得という意義のみならず、相手との様々な状況における最善の対応を行なうための原理原則を伝えるものとしての意義があると考えていた。さらに、技と技のやりとりとは、他者・外部からの働きかけに対し応答するというコミュニケーションの要素を内在しているとも考えていた。柔道の嘉納治五郎は、形(型)を言語体系における文法に、乱捕り(組手)を作文に例えたらしい。

【型稽古(修練)の目的】

フリースタイル空手・拓真道(Takushin-do)における、「型」及び「型稽古(修練)」の目的は、将棋における手筋の如く、「局面のおける最善の戦い方」を学ぶと同時に「戦いにおける原理原則(理法)」を学ぶものであると考えている。さらに「戦いにおける原理原則(理法)」を学び、相手との対応状況における最善の対応を創出するためにある。また、新しき型の創出は、さらに新しい型を創出することにつながる。ここで重要な概念に、「原理技」というものがある。

「原理技」とは、複数の技で構成された組手型のことではなく、その組手型の要となるような技のことである。そして、その要となる技、すなわち「原理技」こそが、技を実効あるものとする要素といっても良い。

型稽古(修練)においては、型を媒介とし、自己の心身操作の高下を「他者からのフイードバック」を通じ再認識される。そのフィードバックを自己の中に包摂することで、自己の心身の操作がより高次化するのだ。また「原理技」の体得を目指すことで、心身操作が、より高次化する。

【「原理技」とは何か】

先述した、「原理技」とは何か。直感だが、心身の操作における数学の公理のようなものかもしれないと、考えたことがある。また、型とは方程式のようなものかもしれないとも考えた。さらに、優れた武術家は、複雑な局面の打開を、自他一体の精緻な心身操作と原理技の応用により、自己に優位な状況に転化していくものだと思う。その位相が数学者が見る数学の世界と同じだと想像するのは、私が数学に関して無知であるからかもしれない。しかし、直観的には、数学的な世界との共通項があると、私は思っている。

話を戻すが、武道哲学的に言えば、「原理技」とは、普遍的かつ優れた身体操作に内在する「天地自然の理」を活用した技と言い換えても良い。言うまでもなく、戦いにおいては、絶えず自己にとって最善の技を駆使するに、「理」を手中にすることが重要である。そして、その理を顕現させる身体操作が「原理技」と言っても良い。また、その身体操作の基盤には、眼に見えない心の働きもある。ゆえに技の実相を真に観るということは、あまりにも複雑で一般人には不可能かもしれない。しかし、意識を高めつつ修練を積めば人間の心身を用いた、技の真の姿が見えてくることは不可能ではないと、私は考えている。

【型修練の目的は原理技の体得である】

繰り返すようだが、わが空手武道における型稽古(修練)の目的は「原理技」の体得である。なぜなら、「原理技」を体得した者のみが、多様な状況においても、優れた技を駆使することができるのだと考えるからだ。別の言い方をすれば、「原理技」を体得したもののみが、千変万化の技を創出できるということである。

本来、行為としての「技」は一回限りのものである。しかし、「原理技」を併せ持った「技術」というものは、状況が変わっても、同じ技が再現され続けるているかのような錯覚を起こさせる。しかし本当は、毎回新しい技が創出されているのだ。私は、そのような技術の体得を目指して、「型稽古」の反復を行なうのだ。

蛇足ながら、柔道では、「型」を「形」と呼称しているが、その意味合いは、私の云う「型」と同じであると思う。少なくとも嘉納治五郎翁が考えた型(形)とは、そのようなものだろう。一方、わが空手界の「形(型)」は、多くの人が皮相的な「型稽古」を行なっている。以前から、僅かではあるが、形(単独形)の稽古と同時に分解稽古と言って、形の応用(組形)を稽古する人たちがいた。最近は、型に包含された、先達の原理を研究する人もいるようだ。そのような稽古は、私の考える「型稽古」に近いかもしれない。

補足を加えれば、型稽古は理想の形を創出するという目的と共に、あらゆる状況に実効性のある「技術」を体得するという目的のためにあると、私は考えている。ここでいう実効性のある技術と理想の形とは、別物ではない。ただし、あらゆる状況に実効性のある技術とは、一般人が観る、皮相的な技のことではない。優れた技に内在する「原理技」のことだ。

徒手格闘と云う、心身を共通基盤に他者(相手)と対峙する状況においては、複合的な要因が絡み合い、絶えず状況は変化する。そのような中で「必勝」という状況を創り出すには、相手の動きに普遍性を発見することが必要だ。なぜなら、相手の技が実効性を発揮する前に、その技を予測かつその構造を理解できれば、相当に有利だからだ。もちろん、相手の技の完全な予測は、不可能と言っても良いくらい困難であるということはわかっている。それでも、相手の技の予測かつ構造を理解することが必要だ。そのような力が自己の技の実効性を保証してくれるだろう。

繰り返しになるが、武術家には、技が表出する際の「普遍性」を察知する能力が必要である。さらに「原理技」を充分に活かし、合理的かつ最小の動きで対応するものが、高い次元の技術である。華美な動きは、相手との対応という観点では、応用力が低く、高い次元の技術とは言い難い。勿論、華美な技も優れた技とも言えるが、真に優れた技術であるかどうかは、吟味しなければならないだろう。

【無形の型(見えない技)を追求すること】

私は、「単なる形相としての技を追求するのではなく、技術を究める」ということを目指すことが、空手修行者の理想だと考えている。ただし、技術を究めるには、形相としての技の研究も必要である。それがあって初めて、次の段階に到達する。

私がここでいう「技術を究める」とは、有形の形に囚われず、無形の型(見えない技)を追求することだ。言い換えれば、技が生み出される状況を構造的に理解することだと、言い換えても良いかもしれない。そのためには、他者を知ることと共に自己を知ること。また、その関係性を理解すること。さらには、勝負という概念の考察と見直し並びに人間に関する全てを考察することである。

【普遍の技とする】

もう一つ付け加えるならば、武道家の理想は、技術を究め尽くすことにより、自己の使う技を真の技に、すなわち、「自己の技を普遍の技とする」ことだ。

【真(ほんとう)の身体(からだ)】

最後に、拓真道は人間の心を活かし、かつ自己の身体を活かして、真の身体を創ることを目標としている。我々の身体(からだ)は、我々の生活の中でプログラムされてきた組織でもあるが、その身体(からだ)をより善く作り変えていくこと(リプログラミング)が拓真道なのだ。

 


  • 以上は参考文献(再考中)
  • 2009年作成/一部加筆修正
  • アメーバブログ:増田 章の「からだで考える」2015/3に掲載。
  • 2016/7一部修整