このページは空手武道通信のデジタル教本-理論編の一部です。

機について  大機大用(だいきだいゆう)〜柳生の教えより

『~刀は体である、切る、突く、は用である。それゆえ、機は体である。機から外に現れて様々な働きがあるを、用(ゆう)と言うのである~以下省略』(兵法家伝書/五輪書・原本現代語訳・ニュートンプレスよりより)。『機というのは、心の内で油断なく、物事に気をはたらかせている状態をいう。だから、その思い詰めた機が、心の内に鋳型のように凝り固まっていては、かえって機に束縛されて不自由である。これは、まだ機が熟さないからである。
十分な修行をつめば機が熟し、全身にゆきわたっても自由なはたらきをする。これを大用という』
(兵法家伝書・下巻・無刀の巻/五輪書・原本現代語訳・ニュートンプレスより)
また柳生は、『内にかまえて思いつめたる心の状態を志しという。内に志しがあって外面に発して現れるのを気という』とも著している。
(兵法家伝書・上巻・殺人刀/五輪書・原本現代語訳・ニュートンプレスより)

不遜にも、柳生の示した「機」を現代的に解釈すれば、意識のことではないかと考えている。そして、その意識には、「大機」という「潜在意識」の領域と「気」という「顕在意識」の領域に属するものがある。私は、そのように捉えて良いのではないかと考えている。

また、柳生がいう「志」というのは、「潜在意識」までに浸透する意志と意識のことである。
さらに心というのは、それらの意識を生み出す機能、そのものを指すと考える。断っておくが、ここで言う潜在意識とは、自分という小宇宙のみならず、自他すべてを包括する、大宇宙に繫がっていると考えられるような意識のことだ。

兵法家伝書の目指すところは、武芸による「円転自在(自由自在)」の境地を体得することだと、私は考えている。武芸の修練を自己の確立、人間完成に転化していく。つまるところ、兵法者が、武芸の修練により、自己を円転自在にして、世に貢献するようになることを目指せと、説いていると感じるのだ。

補足を加えれば、柳生が観た「大機」とは、行動を生じさせている根源的な領域のことを指すと考えている。さらに、大機が熟すれば、最善(真)と言って良い「用」、すなわち、最善の考え方や行動が生まれるということを示していると考えている。

そして、人間の心と世の中に精通しつつ、大機の運動を見据え、かつ大用を創出するような兵法を己のからだに具すのだと、伝えているように思う。徳川300年の礎づくりに貢献した、見事な兵法者の宇宙観だと思う。

蛇足ながら、私は、柳生のような大兵法者には足元も及ばない、アウトサイダー的な兵法者である。しかし、柳生のような大兵法者を目指すという志だけはある。分不相応な目標だとは思うが、力を振り絞りたい。今後、フリースタイル空手に掲載した、私の武道哲学の再検証、思索を兼ねて、古典の再読、再解釈にも挑みたい。そして、空手武道通信を通じて、私の道場生に、武道哲学を伝えたいと思っている。

このページの内容は、アメーバブログで2013年1月21日に掲載した内容を加筆修正したものである。以下にアメーバブログに掲載したコメントも記載したい。

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大機大用(だいきだいゆう)

拙著「フリースタイル空手」を上梓してから、早くも6年が経った。
その後の修行で、理論や定義、すべての面で、修整したい点が見つかった。
私はことを急ぐという、悪しき性癖があるようだ。弁解を許していただければ、それほど、私には時間的余裕がなかった。物事の研究には、情熱と志、時間と資金、そして能力が必要だろう。現在もそうだが、私に最も欠けているのは、資金と能力である。拙著に関しても、できれば、修整を加えたい(DVDも含め)。現在、新しい組手法、競技方法の構想がほぼ纏まった。後は、修練の理論と体系化を急ぎたい(力尽きる前に)。いくつかある修正点の内、「機」の概念を見直したい。
拙著では、「機」を戦いのリズムを掴むためのもの、すなわち、最善のタイミングを掴むための概念として示した。その背後には、「機会」という概念があり、それらを時間的概念に属するものとして捉えたからである。その直観が、すべて間違っているとは思わないが、時間の概念も含め、もう少し掘り下げたいと考えていた。それを掘り下げる糸口として、先ずは、柳生宗矩の「兵法家伝書」を再読している。その中で、柳生の示した「機」と言う概念に触発され、新しいひらめきがあった。それを記しておきたい。