平昌オリンピックにおける羽生選手の戦いを観て

平昌冬季オリンピックが熱い。全ての競技を見ているわけではないが、時々テレビを見る。オリンピックアスリート達のパフォーマンスのみならず、試合前の表情から、若い頃の自分を思い起こす。また、冬季五輪のアスリートのパフォーマンスや言動から、あらゆるジャンルの人たちに役立つことが見受けられた。

本日は、フィギアスケートの羽生選手の演技に心が踊った。その素晴らしさは、フィギュアスケートをしたこともない私にも理解できた。周知のように、羽生選手は試合直前に怪我をして、コンディション調整が大変だったようだ。ゆえに、前オリンピックチャンピオンとしてのみならず、その立ち振る舞いに、より注目が集まったのだろう。私にとって特に興味深かったのは、そのような状況を、本人(羽生)が楽しんでいるかのようだったことである。

 

【怪我が良かったのかもしれない】

気づいている人もいると思うが、羽生選手にとって怪我が良かったのかもしれないということだ。世界的なアスリートと私を比べるのは不遜だが、私にも経験がある。実は私には空手の決勝戦に勝ち上がったことが数回ある(毎回決勝に上がれたと思うが)。その中で、直前のケガや病気を抱えていた時がある。

自分に優勝するだけの力があり、自分も周りもそれを期待しているような状況の時、少なくとも周りからは、「それは無理かもしれないよ」というような眼で見られた方が、他者からのプレッシャーは少なくなると、感じた。

補足すると、怪我や病気が周知となっていて、周りが「これはダメかもしれない」と認識している時の方が、周りからの期待のプレッシャーが少なくなるということである。ただし、怪我が周知されていないと、それを自分で抱えながら舞台に望むことになる。そんな時は、相当なプレッシャーが想定される。

私の空手選手時代のことである。私は18回全日本に出場する直前、交通事故で右手が使えなくなっていた。試合の前日と1日目(空手の試合は2〜3日間続く)の夜は眠れなかった。否、手首を冷やし、回復を直前まで願っていた。第4回世界大会の時もそうである。歩くことも困難な状況だった。第5回の世界大会では、腎機能障害で何ヶ月も闘病生活をしていた後の出場であった。

【周りの目に煩わされる事なく】

そんな時、不思議と周りの目に煩わされる事なく、自分の心理面のバランス調整能力が活性化されたことを記憶する。具体的には、これまでの自分の技術を俯瞰し、その良いところにフォーカスをあてて、その良いところを活用することに意識がいったということだ。言い換えれば、「自分のできる事を最大限に発揮する」という事だろうか。その結果、自分の良いところが、いつもより良いのではないかと思うぐらい発揮できたのだ。

【自分をプロデュースするプロデユーサーとそれを実行させるコーチ】

私は、誰もが「お前はピンチだぞ」という目で見ている時ほど、自分を俯瞰できるのではないかと考えている。そして、そんな時ほど、「自分のやれる事を最大限にやる」また、「それを最大限に磨き上げる」など、自分の強み(持ち味)に集中できる。そんな基本的なことを我々は、よく忘れてしまう。そして自分の力を過信し、かつ見失い、自分を空中分解させてしまう。もちろん、並み居る強豪の中で最後まで生き残り、自分を輝かせるには、「地力」を生かし、かつ強大にしなければ、頂上の地位(最高)に立つことはできないに違いない。そのことをフィギアスケートの羽生選手は、知っているかのようだった。相当なメンタル調整力だと思う。おそらく、自分を俯瞰するということを耐えず行い、自分をプロデュースするプロデユーサーとそれを実行させるコーチが彼の心の中にいるのだろう。

羽生選手の今回の怪我は、流石の彼も気づかなかった(本当は、それを気づきつつ、ギリギリのところでやっていたのかもしれない)、自身の身体疲労を除去し、かつ彼の持っている類い稀な精神構造を活性化させたと、私は想像する。また、メデイアは書いていないと思うが、ストレートにいえば、直前に怪我をしたことで、団体戦に出場しないことの言い訳ができた。また、外部をシャットアウトし、マイペースを貫けた。普段、羽生選手はストイックでマイペースのようだが、それでも、実は他者とのコミュニケーションにとても気を配っているに違いない。そんな気遣いを全てシャットアウトできた。またその行為が、怪我により免罪された。これは私の経験による感覚であり、羽生選手は、そのような感覚は持っていないかもしれない。また、少し意地悪な見方だと感じる方もいるかもしれないが、結果を出す人間というのは、ある種の「非情さ」を持っているものなのだ。人間をそんな綺麗なものだと考えてはいけない。通常の情や常識による感覚だけを頼りに判断していては、厳しい状況において心理的バランスを保てないと、私は考えている。

もう一つだけ書いておきたい。昨日の朝日新聞の朝刊の記事に羽生選手のコメントが載っていた。技術を含めた自分の全てを研究する姿勢に感銘を受けた。私が空手でテーマとしてきた「普遍性の探求」と「人間探求」ということにも共通すると思う。以下に掲載したい。

『羽生の言葉を借りれば、「最大公約数」を「連想ゲーム」のように、小学2年のころからつけ始めた「研究ノート」に記録する。つまり、成功や失敗した時に体の各部分がどう動いていたかを整理し、共通点を書き出すのだ。そして、ジャンプ成功のための「絶対に見つけなきゃいけないポイント」を絞っていく。だから、羽生は自分の精神状態や体の動きを、言葉で的確に言い表せる。特にミスした時ほど話す。「話すことで課題が明確に出る」と言い、「(自分の言葉が書かれた)記事を読み返すと、自分の考えを思い返せる。それは財産であり、研究材料。だから、しゃべる」(2月17日、朝日新聞)』

とにかく羽生選手は、その演技のみならず、コメントも魅力的だった。おそらく、これまでは彼の言動に関しては、異論もあったかもしれないが、これからは誰も異を唱えなくなるかもしれない。それは、良くないことだと思っている。羽生選手は、そのような異論を糧にし、自分の位置と状態を認識し、それを修正していくのだと思う。彼は現役引退を表明していないが、また当然のことながら、彼の人生は続く。彼がどこまで成長するのか。彼は類い稀な努力家であり、かつ強運の持ち主であることは疑いない。だからこそ、これからも思慮深さを深化させることを忘れないでほしい。人生と人間は、スポーツよりも複雑で色々あるに違いないから。そして、今は咲き誇る花だが、いずれは未来へ種子を残し、良き土を作るために貢献してほしい。

【蛇足】

蛇足と言ってはなんだが、普段、所々ツッコミながら観る朝日新聞の朝刊が良かった。なぜなら、今朝の朝刊は、オリンピックと羽生選手の記事と将棋の藤井氏の記事で華やかだったからた。将棋は朝日新聞の主催だから当然だと、ツッコミが入ると思うが容赦願いたい。本日は若い人のみならず、年寄りにも夢を抱かせる良い記事が多かったように思う。私の好みだが、それをテレビやネットで見るより、新聞でじっくりと眺める方が楽しい。私は新聞好きである。しかし、普段、スポーツ欄はあまり読まない。今回は、羽生選手や藤井氏の活躍が次世代に対する希望を育むと判断し、大々的に取り上げているのだろう。そんなメディアの喧伝的なところを、私はいつも突っ込む。そして、エビデンスと哲学を問いかけている。もちろん良い記事もある。例えば、秋山訓子、朝日新聞編集員のコラムが私の好みである。もちろん他紙の記事にも良いものがあると思う。できれば、そんな記事を読みながら、コーヒーなど飲めたら良いなと思いつつ筆をおきたい。