平昌冬季パラリンピックを観て

 【スポーツの素晴らしさ】

周知のように平昌冬季オリンピックは日本人選手の活躍めざましく、また多くのアイドル的アスリート達に感動をいただいた。断っておくが、アイドル的とは語弊があるかもしれない。ただ、選手達にスポーツ的感動以上の癒し的な感覚をいただいたのは私だけだろうか。

現在、冬季オリンピックに続いて平昌冬季パラリンピックが開催されている。さすがに仕事が山積する中、オリンピックほど観ないが、それでも報道を観る。そんな中、感じることは、スポーツの素晴らしさである。テレビでもスポーツの素晴らしさを喧伝していたが、スポーツの素晴らしさとなんだろうか?厳しい状況の中での素早い判断と決断。また、非日常的な技術。それが見るものに直接的に伝わってくる。そのような要因がスポーツによる感動の源だろう。さらにメディアは、選手達にストリー性を持たせ、アイコン性を強化する。以上は私の直感である。正解があるかどうかは別として、増田流に少し考えて見たい。

【スポーツと武道の違いについて】

まず、スポーツについて考えるにあたり、私の周りでよく聞くことに、スポーツは「遊びから派生し、楽しむこと…」。一方、「武道とは遊びではなく、命懸けの真剣勝負の道である…」などの大まかな定義がある。先述の言は、定義というには大雑把すぎるが、私の周りでは、スポーツに対する批判に近い評価があるのは、事実である。そして、空手や武道に対する特別扱いがある。あえて、それを言うのは、私は、スポーツと武道を分けて考える向きに、若干の違和感を感じてきたからである。ここで少し、スポーツと武道の違いについての持論を展開したい。

繰り返すが、私は先述したようなスポーツの定義には違和感を感じる。また、先述の武道の定義も同様である。なぜなら、そのような武道の定義の背景には、兵法があるとして、ほとんどの武道、武術が、兵法とは異なるものとしか思えないからだ。また、たとえスポーツが「遊び」から始まったとしても、その発展系は、「単なる遊び」とは思えない。その意味は、スポーツにおける高度の集中力の発揮される状態と武道における、それとは同一のものだと想像するからである。ただ問題は、インプットされる情報に質的に異なる部分が少々ある。そこが重要だと言われる向きに関して議論するには、もう少し丁寧に論を展開しなければならないだろう。あえて乱暴に言えば、「武道とは命懸けを想定する」と言うが、命懸け、そして兵法は理性を超えた領域を想定しなければならない。つまり、命懸けを扱うなら、理性を超えた領域を扱わなければならない、ということである。これ以上はここでは書けない。

そこまで言わなくても、武術の原初は、扱いを誤ると死傷に至る武器と格闘の訓練であり、それゆえ不断の精進と心構えを必要とする。その部分が武道の武道たる所以だと言えば、楽しさ優先のスポーツのあり方は、武道とは異なると言っても間違いではないとは思う。ゆえに私も武道とスポーツの間に一定の距離をおいている。しかし、スポーツと武道が同一出ないとしても、それらに架橋し、長所、短所を補完し合えば、より良いものに発展すると、私は考えている。

少しくどくなるが、人間が武道や武術の訓練に精力を傾けられるのは、その行為の必要性のみならず、その行為の先に「遊びの要素」と「遊びの究極」があるからだと思う。ここで言う「遊びの究極」とは、単なる気持ちが良い、あるいは、楽しいという感覚を超越する感覚である。それは、禅でいうところの「三昧の境地」に至ることだ。また「三昧の境地」とは、「無心の境地」と言い換えても良い。補足すれば、「遊びの要素」とは多様な情報を一つにまとめ上げるために必要な行為なのではないかと想像する。そして遊びという行為の究極に、無心の境地があるように思うのだ。おそらく、予測不能の真剣勝負の中、自己を喪失しないために、そのような状態が必要なのであろう。同時に、無心の境地とは自己の全力を発揮する準備が整った状態でもあると思う。さらに言えば、その境地に至った後、初めて真の感謝が実感されてくると、私は直感している。そのようなことを、若い頃、スポーツとも武道とも言えぬ極真空手に人生を賭し、私は感じ取った。

私は若い頃、私に対する理不尽とも思える評価に対し、どうしたら自己を喪失せず、自己のパフォーマンスのベストを現出させられるか、苦悩していた。その苦悩の解を求めて、一日8〜10時間の稽古を目標とした。そんな中、肉体を鍛えることの先に「無心の境地」が見えてきた。つまり、心と技と体を自由自在に活用するためには、無心の境地に至る扉の鍵を手中にすることが、トップアスリートの必要条件だと悟ったのである。

私は、極真空手のチャンピオンになるため、自己にハードなフィジカルトレーニングのみならず、徹底的なメンタルトレーニングを自己に課した。その中には宗教や信仰について掘り下げることも含まれる。また私は、いくつかのメンタルの状態のポイントを掲げ、絶えずその状態が維持されるように、絶えずキーワードとともに意識し続けた。そのキーワードをいくつかあげれば、「あきらめない」「積極」「集中」「楽しむ」ということである。もちろん、それ以外にキーワードがある。さらにそのキーワードの先には「感謝」があった。

増田流の「あきらめない」とは、自分の頭の中で結果を簡単に出さないということである。最後の最後まで結果はわからないと、考えることと言い換えても良い。また「積極」とは、「必ず良くなっていくと信じること」である。そして「集中」とは、今この瞬間に全力を尽くすことである。また「楽しむ」とは、すべてのものを生かすことである。また生かしている実感をつかむことである。楽しむということは、「自分自身が生かされているという実感を得ること」と言っても良いだろう。さらに言えば、その実感を得るためのアイテム、呪文は、すべての物事に感謝することであろう。これまで、それを語らなかったのは、精神的なことをいうのが嫌いだったからである。なぜ嫌いか。今は語らない。ただ、若いアスリートの情熱とひたむきさを目の当たりにして、その時の自分を思い出した。

【家族の深い感動と愛】

かなり脱線した話を戻したい。今回の平昌冬季パラリンピックにおいて、最も感動したのは、メダリスト達の家族に深い感動と愛があるということを知ったことだった。私は、テレビで選手の家族らが、その勝利に涙を流している姿に、もらい泣きした。もちろん、私には障害者スポーツをおこなう家族もいなければ、障害者の家族もいない。当然、障害者スポーツを行う人、そして障害者のことも理解不能であることを承知している。しかし、家族の気持ちを想像してしまうのだ。

【自由かつ不自由】

もう一つパラリンピックを観て思うことは、おそらく、障害者スポーツを行う人たちの始まりは、自分の体を自由かつ不自由だと自覚したところから始まるのではないかと言うことだ。言い換えれば、身体の不自由を受け入れたときから、自由への道が始まるということである。

私は健常者だが、かつて究極のパフォーマンスを追求するゆえ、怪我による障害のみならず、理想の目標を達成できない状況に足掻いていた時がある。そんな中、自分の身体とは、いかに自由かつ不自由であるかと思っていた。

【究極的には健常者も障害者も同じではないか】

今私は、究極的には健常者も障害者も同じではないかと、直感している。否、健常者の方が自分の身体の自由に囚われ、不自由を受け入れられず、最期、不自由な身体と向き合い、人生を終えていくような感さえする。一方の障害者アスリート達は、不自由を受け入れ、むしろ自由の本質を掴んでいるように思うのだ。もちろん、健常者も身障者も、いずれ身体的に機能不全に陥り、人生を終えるに違いない。しかし、身障者アスリートの生き方には、本当の自由を掴もうとする、積極的精神、そして自己の人生を楽しもうとする情熱に溢れている。私は、その障害者のあり方、姿を肯定するだけで、社会的な意義があると思うのだ。断っておくが、私は障害者も不自由を克服し、スポーツを行えと言いたいのではない。ただ、障害者のみならず、現健常者も必ず身体は不自由になる。しかしながら、考えてみてほしい。人間はみんな赤ん坊の頃、不自由だったではないか。それを家族が、また社会が守り、育ててくれたのではないかということを言いたいのだ。そして、その感謝を社会の一員一人ひとりが、今一度、深く自覚することで、より良い社会に向かうと思うのである。言い換えれば、人間の可能性の開拓を社会のみんなで保証していくことが、より良い社会を築く方向性だと思っている。そのようなことを、パラリンピックは感じさせてくれた。スポーツも同様である。みんながスポーツを通じ、無心の境地を目指し、自己の心身を解放させ、かつ感謝を感じていく。私はパラリンピックに関しては無知である。しかし、スポーツの思想が発展することに対し、武道の掲げる思想の貧困を、私は感じずにはいられない。

【社会に有益でなければ】

最後に、障害者アスリート達の家族の愛情は、健常者のそれよりも深く、そして強いと、私は思う。ゆえにその涙に、もらい泣きするのは、私一人ではあるまい。とにかく、パラリンピックが教えてくれるのは、人間の可能性の豊かさのみならず、家族や社会の有難さである。また、パラリンピックは、商業主義を揶揄され、臭いものに蓋をされている感のする、オリンピックを浄化し、スポーツを公共的文化財として高める効果を発揮している。

遊びの究極を「三昧の境地」「無心の境地」と先述した。また武道を掲げる人たちが、本当に命懸けの真剣勝負を想定するならば、「無心の境地」に至らねば、究極的に役には立つまい。もちろん、その技や術を知らない相手には優位性を保つものぐらいにはなるかもしれない。しかし、それだけでは十分ではないだろう。

繰り返すが、オリンピックアスリートが目指すべく、「三昧の境地」そして「自由」とは、武道や武術を行う者の究極的境地と同じではないかと考えている。

さらに言えば、武道や武術は、近世においては兵法と切り離され、本質は武芸である。それは、スポーツと親和性の高いものである。否、同質と言っても過言ではないと考えている。ただし、武術や武道には、護身術としての側面があり、その部分は、スポーツと異なるところかもしれない。しかし、そのような面から見ても、スポーツが国家有事における国民の心身の訓練が含意されていると思う。つまりスポーツと武道の共通項が見られ、兵法につながる。そこまで掘り下げると、論文を書かなければならないが…。

武道と言おうがスポーツと言おうが、人間を益するものとして、社会に真に有益でなければ、発展しないだろう。ゆえに武道をスポーツと融合し、武道をより公共性の高いものにしていくことも一案かと思っている。

 

▼合宿講習の下見にて