弱い人にこそ武道を・・・

 

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【岡山県ジュニア空手道選手権大会】

2014年7月14日(日)、IBMA極真会館・岡山県支部が主催する岡山県ジュニア空手道選手権大会に役員として参加した。大会は、岡山の中学生、高校生、道場生、先生、多くのボランティアスタッフで運営されていた。私はその姿に感動した。誤解を恐れずにいえば、道場は選手のためではなく、イベントを手伝う人のためにこそあるべきだと思う…。

さて、今回の岡山県の大会では、従来の組手クラスに加え、ライトコンタクトのクラスを新たに設け、クラス数が2倍になった。ライトコンタクトのクラスとは、頭部、肘、すね、胴のプロテクターを装着して組手を行なうクラスだ。そのようなクラスを設けるのは、体力が充分ではない子供達にも、組手試合の経験を積ませるためだと思う。組手の経験は、武道空手の稽古のすべてではないが、稽古の一環として、充分に意義のあるものだと、私は考えている。ただし、組手試合が、ただ強者を決めるためだけもものであってはならない。そのような考えが中川氏と私の考えの共通点だ。私と中川氏の考えで異なるのは私は競技を楽しむことも、空手の活かし方だと考えている点である。しかしながら、その点をメインの持っていけば、武道独自のものを弱める可能性があるかもしれない。その中には、武道の有する武術的側面の喪失もあげられるかもしれない。

そのような憂慮に関し、中川氏に迷いはない。なぜなら、中川氏は「空手はスポーツではない」という立場だからだ。しかし、私の方には迷いがある(迷いと言えば迷いだが、考究し続けているとも云える)。この部分は丁寧に書かなければ誤解されると思う。あえて誤解を覚悟で述べるならば、「スポーツも武道も現代社会においては融合されつつある」と、私は考えている。少なくともルールを設定し、選手と観客を集め、競技を行うということ自体がスポーツではないかと思う。また、スポーツにも充分に人間教育的側面があるとも思っている。それは、私が長年にわたり、空手競技で鍛えられ、それによって悟ることも多々あった経験による。また、その悟り(普遍性)を活かせば、空手武道はもっと有益なものに生まれ変われるとの「夢」を見ているからだ。更に云えば、武道を声高に掲げる、我ら極真空手の姿を観て、一体、どこが武道だと胸を張る部分なのだろうと、思うことがあるからだ。

【弱い人(体力的に)にこそ役立つ武道を広めたい】

今、強く思うことは、道場生の人格形成に少しでも役立つ、空手道の実践を行なわなければならないということである。なぜなら、善き仲間と空手道を通じ、仲間となりたいからだ。そんな思いをもちながら、岡山県大会を観た。大会途中、中川氏と意見交換を行い、「弱い人(体力的に)にこそ役立つ武道を広めたい」ということで意見の一致があった。

具体的には、「健康」と「護身(護心)」に役立つ空手だ。私は今、その準備を進めている。問題は、志の高さに対し、私の能力が不足していることである。そして身体が持つかどうかである。

最後になるが、私の盟友の中川氏を始め、岡山の藤島代表、池本師範代、片山先生、岡山の黒帯の人達の頑張る姿に勇気をもらった。

【蛇足】
蛇足ながら、新幹線の車中、何冊かの本を読んだ。その中に、松濤館空手の先達の一人、久保田紹山師範の本がある(再読)。この本は、久保田師範のご子息から頂いたものだ(実は、その他の貴重な資料も拝領した。早く、研究に没頭できる時間が欲しい・・・)。

久保田師範のご子息とは、私の友人の恩師(高校の英語の先生で空手部顧問)ということで紹介された。現在、某有名予備校の講師で、数百万部の発行部数を誇る、英語参考書の執筆者の一人でもある(我が愚息も使っていた)。

その久保田先生(紹山師範のご子息)には、拙著「フリースタイルカラテ」を献本した際、「増田さんの空手理論は親父の空手理論と似ている」と言われた。

確かによく似ているかもしれない。久保田師範の空手は、相手を倒して極めたり、掴んで関節を極めたりして、相手を制圧する空手だ。

私の空手も相手の制圧(なるべく瞬時に相手の戦意を喪失させること)を目標としている。また私は、船越義珍師範の考えと同じく「空手に先手無し」と考えている。言い換えれば、「応じ技こそが空手の真髄」というものだ。

異なる点を上げれば、空手に内在する武術性の考究と承継に専念しているかどうかの違いであろう。私には、オリンピック・スポーツの創出というテーマで論を展開しているという手前がある。
しかし、論は論として、私の役目を終えたいとも考えている。なぜなら、もう時間がないと思うからだ。後は、先述したように、空手を、人間形成(人格陶冶)、健康、護身に役立つものとしたい。

できれば、久保田師範とお話をしたかった。ただ、不遜ながら、空手に内在する武術性を復興するならば、伝統型を絶対視するだけでは不充分だと言いたい。

私の意見は、先ずは、新たな型の創出とその応用を考えること(久保田師範流に言えば、隠された技を見つけだすこと)。さらに、その実験の手段として、新たな組手法を創出するべきだと・・・。それが久保田師範の云う「完封の技」を体得するための基礎、空手を行ずる基礎となると、私は思う。

これ以上の論の展開は、時期を待ちたい。