身体で考える〜小論/極真空手の試合法における反則判定について

 

私の主宰する空手道場の交流試合における反則判定について討論が行われている。選手から反則判定について異議申立てがあったからである。

断っておくが、私の道場では試合方式が2種類設定されている。一つは伝統的な極真空手の試合方式に若干の改訂を加えたもの。もう一つは増田章が考案した完全ポイント制のTS方式、通称ヒッティングである。ヒッティングではポイントの判定については、若干の訓練が必要だとは思ったが反則はなかった。競技規程の中心が技術の正確性と技能の巧みさであるからだ。

討論が行われているのは極真方式の試合における反則判定についてである。この問題は2週間ぐらい討論をしてから、審判委員会の長から今後の判定も含め、見解を発表してもらうことにした。

私は今回の異議申立てを良い機会だと思っている。極真空手をよりよくするためには、試し合いの方法(競技法)を作り変えることだ、というのが私のアプローチだからである。つまり、競技規定が不十分だから、今までも様々な問題が生じてきた。これからもなくならないであろう。このままでは。多くの人はそれに見て見ぬ振りか、影で不満を言って自分勝手なことを行っていく。それらは全て安易な妥協だと思っている。

今回、試合審判員も誠実に審判に取り組んでいた。私も様々な案件の処理で体調が良くない。眼と脚が化膿し、抗生物質の投与をしている。良くはなってきたが、完治はしていない。しかし、これは競技規程を作成し、競技大会を主催している私の責任だと考えている。ゆえに、完全な正解には至らないかもしれないが、思索を試みて見たい。

まず前提として、極真空手の組手では、顔面に突きを当てることは反則となっている。しかし、顔面突きの反則をとる場合、その突きが軽いものか重いものか、すなわち、相手にダメージを与えたか、与えなかったかで判断を変えるべきではないか、という意見が出ている。また、そもそも、当たっていないとの異議申立てが出ている。審判委員は何度も映像を見て確認したが、映像にも限界があるようだ。

【小論】

IBMA極真会館では、故意に反則を犯せば即刻、レッドカードによって、警告を宣告し、その後、反則を犯せば、失格、選手登録、組織からの除名も検討する。また、故意であってもなくても、相手に深刻なダメージではないが、顔面突きと当てた場合、「イエローカード」によって注意を宣告する。

だが、問題は、顔面への突きがダメージを与えないほどの軽微なもの、かつ、突きとは言えないようなものの場合、ややこしい。「イエローカード」の宣告を複数回受けた選手は、試合の勝負判定に影響が出るからだ。ゆえに選手は、「イエローカード」の宣告に異議申し立てをしている。確かに、極真空手の競技試合においては、受けのための押さえ突きや突きのリードのために腕を伸ばしたものが当たる場合がある。今回の場合がそうであるということではないが、私の経験でもそのようなことがあった。20年ほど前になるが、副審をしていた時、現行ルールに則り、選手に顔面突きの反則注意を促さなければならないと思い、旗を振った。だが、一方の選手にも押さ突きが当たっただけなのに、大げさに転倒し反則をアピールしたと思っていた。私は反則注意を促された選手の試合内容が互角以上だったので引き分けとした。それが誤審だと言われれば、私は誤審で結構だと思っている。のちにそのような行為はサッカー競技でも横行し、「シミュレーション」という名称で、逆に反則行為となっていることを知った。極真空手は遅れていたのである。

一方、これまでも審判員から、故意でないものは反則としない、と言う意見がでた。その時、私はその意見に反対してきた。なぜなら、ダメージを受けた選手が「やられ損」になるからだ。その問題の核心は、ダメージのあるないということを物差しにすることであった。それは反則のみならず、競技試合全体にも言える。人間である審判にそんなことはできないというのが私の考えである。ゆえにダメージ制の格闘技の競技試合は、KOかギブアップをゴールにするような枠組みでなければ公正でなくなる。その前提で有効打の多寡が判定の物差しとなる。残念ながら、極真空手の競技試合は曖昧なダメージ判定と有効打の判定を検討もせずに、見た目の気合いや手数、そしてスタミナの多寡を判定材料にしている。そんな競技試合は、他の優れた格闘競技者から見たら噴飯ものである。少なくとも、私はそのことを極真空手をはじめた時から理解している。なぜなら、他の格闘技を経験したこと。人知れず実戦を経験したこと。そして、早くから極真空手のトップ選手との試合を経験したからである。

ダメージがあるないと言うのは個人差があること。つまり、屈強な男性にはなんともないような攻撃でも、子供や女性の場合はダメージを受ける場合がある。また、見た目や戦っている最中は気づかない場合もある。それらを全て、審判の主観に任せていたら、必ずばらつきが出てきて、公正さ欠く事になると、経験的に思っているからだ。  下手な例えだが、道路で40キロ制限の法律がある。それを45キロで走っても違反にしない、ということあると聞く。そのような考え方を採用すればよい、との意見もあった。つまり、今回は、一応、40キロ制限の決まりだが、実際は45キロほどの反則だから見逃す。極真空手の競技方法肯定派の多数意見であろう。しかし、そのような考え方には了解できない。もっと明確に明文化された競技規程でなければならない、というのが私のスタンスである。

また、先述したように、ダメージには体力的、感覚的な個人差がある。さらには、審判の主観や感覚の相違、また、先述したように選手側のオーバーリアクションに影響されることもあるかもしれない。ゆえに先述したような反則注意の執行に猶予を設けようという気持ちはわかる。だが、そんな競技規程は不十分である。ただ、ダメージを判定基準にするのではなく、その戦い方に指導を与え(IBMA極真会館に競技規程には指導注意という、口頭注意とは別の明確な反則がある)、その指導注意に従わなければ、その従わないことに「注意」を与えるという方法となれば、別次元となり、かつ顔面突きのダメージがどうあろうと、顔面突きの反則の抑制となるだろう。また、試合自体の流れの妨げにもならないかもしれない。

私は、この件で数人と意見交換したが、あんなに激しい大相撲では、髷に手が触れただけで負けとなる。その意味を理解できないのであろうか。おそらく、大相撲では、その心技体を十分に鍛えられたプロが相撲(競技)を行っているので、そのケースが少ないのだろう。しかし、私には見た記憶がある。もちろん、その行為は偶然だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。そのケースが参考になるのではないだろうか、と直感している。同時に極真空手の競技規定と大相撲の競技規程(そのように言って良いかわからないが)では、月とスッポンぐらいの隔たりがある。私は日本の大相撲は、世界中の多様な競技の中でも、特に優れたゲームの一つ。そして、プロトコルとコードを有していると思っている。

【私が空手を始めた頃】

少し脱線すれば、私が空手を始めた頃のことである。私は試合で相手の顔面突きを何度もらい、唇が切れ、嫌な思いをした。私は自分の顔が不細工な事にコンプレックスを持っていた。特に分厚い唇がコンプレックスだった。それゆえ、口を殴られるのがもっとも嫌だった。この意味がわかるだろうか、おそらく女性だったら、少し理解できるだろうか。おそらく、男性以上に顔に傷がつくが嫌なはずだから。また、ボクシングは裂傷を防ぐために、グローブやマウスピースを着用する。一方の極真空手は、顔面突きは禁じ手としているのでそれを必要としないのだ。「蹴りはどうなんだ」といえば、蹴りも危険だ。ただ回し蹴りなら裂傷の可能性は低くなる(ただし、上段前蹴りは危険なので、防具を使用しない稽古では禁じ手としている)。また、顔面突きを禁じ手としているルールを破るという心構えが不誠実で良くない。

そんな思春期の私が、一番嫌な顔を打たれた。その場合、相手は私の勢いに押されている者、試合において感情的になる選手に多かったように思う。私はそんな行為が大嫌いだった。なぜなら、顔面突きありなら、最初からその前提で戦うし、私自身も相手の顔面を打ったり、投げたりしようと思えば、いくらでもできるのに、それをやらない理由は簡単である。空手に強くなるというのは、正確な技を自由自在に駆使する技能を身につけることだと、柔道やレスリングの経験で理解していたからだ。空手にはその意識が希薄である。根性でどうにかなるとでも思っているのだろう。そのような考え方では、そもそも試合を行う心構えがなっていないと思う。また、レベルではない。百歩譲り、その者も普段は悪い人間ではないかもしれない。しかし、相手がそれを抑制しているのに、と腹がたった。また、そんな奴ほど、試合では勝てないが喧嘩では負けないなどと、影で言うと思っていた。もちろん、例外もあるだろうが…。

さらに言えば、私には160試合ぐらいの試合経験がある。その中で、反則行為を行ったことは1、2回である。おそらく反則は取られていないので、記録は0回であると思う。ただ、私は試合で相手を投げたことが数回ある。それは反則である。しかし、打撃技では皆無だろう。

なぜなら私は不器用だったが、技は正確性が大事だと思っていたからだ。それが、極真の試合では勝つために、だんだん崩れて行くのがわかった。私は自分の組手法のみならず極真空手の組手自体に疑問を持っていたが、現状の審判法において勝つため、それらを受け入れるしかないと割り切っていた。その疑問に対し、確信を覚えたのは、100人組手の前後からであろう。しかし、極真の審判法には変わりはなかった。私は、このままでは極真空手の武術、武道としてのレベルは上がらないと思っていた。

話を戻せば、顔面突きの反則の問題は、その反則をどのような目的でとるのか、ということを原点に戻り、問うたら良いと思う。そうすれば、どのような時に取らないのかが見えるかもしれない。

【3つの眼目】

私は新しい競技規程を作成する際に重要としたのは3つの眼目。一つ目は安全性の確保。二つ目は「正確無比な技術」を競技において養成するということ。3つ目は、相手との関係性の中で「正確無比な技術を芸術的に駆使する技能」を養成するということである。私は、その3つの眼目を軸にして、競技のプロトコルを作っている。少し脱線すれば、極真空手の競技試合にはスペクタクル性が考慮されている。それは興行だからだ。それによって極真空手は短期間で発展した。私はそれを全否定はしない。だが、それを武道性などと勘違いしている人が大勢いるが、その武道観を変えたい(無駄かな。変な宗教みたいだから)。もちろん論破には批判と論破で対抗されるかもしれないが、それで良い。試合も議論なのだ。それは勝ち負けがゴールではない。議論によって発見や気づき、そして創造が生じて、物事が発展的解消される。それが進歩なのだ。

【安全性の確保という面】

話を戻せば、一つ目の安全性の確保という面で顔面突きを考えれば、相手の顔面への裂傷や脳への損傷を防ぐということが考慮されなければならない(本当は蹴りに関する安全性も考慮しなければならない。ゆえに試合ではヘッドギアーをつけた)。もし、その前提が合意できれば話は早い。今回はヘッドギアーを着用していたが、それは顔を打ち合うためのものではなく、蹴り技に対する頭部の保護と顔面突きの反則に顔面と頭部の保護のためである。ゆえに、もし、その突きによって顔面に損傷が想定されるなら反則をとるべきであろう。それは、そうでなければ口頭注意などで注意を促すという考えを補足するものになるかもしれない。

【「正確無比な技術」「正確無比な技術を芸術的に駆使する技能」】

二つ目と3つ目の「正確無比な技術」「正確無比な技術を芸術的に駆使する技能」を養成するという面で考えれば、審判のみならず選手もそのことを念頭に、「ただ勝てば良い」ではなく、組手を行うこと。それが十分にできない人には、組手試合を安易に行わせてはいけないと、と思っている。それが格闘技を基盤とする武道、すなわち人間教育の指導者の責任である。だが、その現実は、人間教育、人格形成などと、掲げながら、安易に組手試合をさせている指導者がほとんどである。私も含めて。少なくとも私は反省をしている。故に、今後はTS方式の競技試合で、動いている相手への正確な打撃技術とともに相手の打撃を防御し反撃する、「応じ」の技術の基本をある程度身につけた人間に、ダメージを与え合う極真空手の競技試合をさせたいと考えている。

今回の討論で一番、乱暴な意見は、蹴りで頭部を蹴ることを認める競技試合が、顔面に突きが当たったくらいで、いちいち反則を取るな、という意見である。そのような考えかには断固として、私は反対したい。確かに極真空手の競技試合は、今、半端なダメージ制競技となっている。このままでは格闘技として必要な技能は高まらない、と思っている。 だが、私は極真会館の人間である。ゆえにその伝統を守りたいのだ。(最近、松井氏に増田はバカ真面目だと評され、苦笑した)。

私が考える、極真空手に一番かけているものは、技術の正確性と技術を駆使する技能の卓越性である。それらが極真空手の競技試合で養成、表現され、かつ理解されるようにしたい。それが私の人生を賭けた悲願である。そのために極真空手を補完する「ヒッティング競技(TS方式)」という試合法を考案した。蛇足ながら、ヒッティング競技には極真空手の組手法に準じた「ベーシック」と顔面突きを取り入れた「ヒッティング」投げも可とする「ヒッティング・フリースタイル」がある。フリースタイルは将来の夢として、まずは原点に戻り、打撃の技術と技能を見直そうというのが、私の構想である。

 

少々自慢めいた話になるが、私が行ってきた極真空手の競技試合はそのようなものだった。代表的な例が第17回全日本大会における、私と松井氏(極真会館 第2代館長)との対戦である。その試合の解説者だった極真会館の役員である待田京介先生が、「二人とも受けが上手すぎる」というようにおっしゃっていたように記憶する。大変名誉なことであった。我々の行っていた組手試合は間違いなく「攻防」であり、相手の技を見切りあいながら、僅かな隙を正確につくことであった。最近、松井氏(館長)とその時の話をしたら、「17回の全日本大会の後、18回全日本から増田の空手が崩れてきた」と言っていた。私は確かにそうかもしれないと、松井氏の意見を聞いたが、18回大会全日本の時、私の右手は握力10キログラムもない状態だった。そして、突き技が使えなかったのだ。ゆえに、松井氏と対戦する決勝戦までは左手一本と蹴り技だけで戦っていた。決勝戦前に痛む右手首に麻酔を打ち戦ったのである。松井氏もそれを知っているはずである。だが、その後も2年間ほど、右手は不自由だった。その時は、不自由な身体であったことに加えて、チャンピオン以上の力があるのにチャンピオンになれないと、焦りがあり、どんなことをしてでも極真空手の競技試合で勝ちたいと、理想を忘れていたのである。その時、松井氏が感じたように、私は空手の理想から離れて行っていたのかもしれない。だが、そのことに気がついてからこそ私は、100人組手を世界大会前にもかかわらず挑戦した。そして入院生活を1ヶ月以上。自宅療養を数ヶ月というハンディを背負ってしまった。だが、そんな経験があるからこそ、極真空手の欠陥を補正したいと強く念願している。

【「尊敬」「正直」「勇気」】

ここまで書いてきて、これを読む賢明な読者は、良いアィディアが浮かんだことだろうと思う。私はせっかち(もう本当に時間がない)なので、方向性を示しておく。今回の問題は、競技規程の責任者である増田章の責任であるから、これをより良い形を目指し修正する。その前提の中、審判の責任や選手の権利に関しては審判委員会のメンバーと委員長の荻野氏と話し合い、決める。ここで重要なのは、選手の尊厳を核とする権利、同時に審判員のそれである。 私は、荻野審判委員長と十分に話し合い、結論を出したい。 ただ、私は競技規程を修正する。そして言いたい。競技試合は遊びではない。 特に相手を傷つける可能性のある格闘技や武術の競技試合は、選手の尊厳を守り、かつ試合をする目的を明確にしなければならない。

私が考案したヒッティング競技規程は、そのことを十分に考慮してある。しかしながら、極真空手の競技規程には、それが反映されていなかったのだ。繰り返すが、新しく作ったヒッティング競技は、私の心身でもある極真空手を補完し、それをより善く進化させるためのものである。ゆえに、私の主宰する団体の競技試合においては、共通の理念、目的で空手修行に励んでもらいたい。

そして、道場の仲間たちが互いに尊敬しあい、正直に交流し、勇気を持って行動していく。「尊敬」「正直」「勇気」、それは「仁」「智」「勇」という、私が制定した「武道人精神(ブドーマンシップ)」というコンセプトから発しているものである。