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空手は「武道」か「スポーツ」か?(24/01/26)

空手は「武道」か「スポーツ」か

―〈覚悟〉を基軸とした立場から

本論に入る前に、「空手は武道か、スポーツか」という問いについて、私自身の立場を明確にしておきたい。
結論から述べれば、武道とスポーツは同義ではない、というのが私の考えである。

私が定義する武道とは、「武術(武芸)の修練を通じて人格を形成し、同時に〈覚悟〉を涵養する営み」である。

ここでいう〈覚悟〉とは、単なる精神論や根性論を指すものではない。それは、己の技が相手に及ぼす結果を自覚し、その結果を引き受ける意思をもって、なお技を行使する主体的決断を意味する。

【武道の成立と〈覚悟〉の内在】

本来、武術の修練は武人階級に固有の行為であった。そして「武道」という言葉もまた、武人として生きる者が、技を用いる責任、生死を分かつ可能性を自覚したうえで修練を重ねる「生き方の道」を指していた。

封建時代における武道は、単なる戦闘技術ではない。そこには、技を行使する覚悟、その結果を引き受ける覚悟、生死の境に立つ覚悟が不可分のものとして内在しており、人間形成そのものが武道の核心であった(武士道)。

【近代武道と〈覚悟〉の再定義 ― 柔道の意義】

封建制度の終焉により武士階級が消滅すると、武道や武士道という概念はいったん社会の表舞台から姿を消す。その中で、嘉納治五郎師範は、武士階級が修めてきた柔術を再構築し、近代武道としての柔道を創設した。 重要なのは、嘉納師範が〈覚悟〉を排除したのではなく、近代社会に適合する形で再定義した点である。

柔道の修行理念である「己を完成させること(自己の完成」「その力を社会に役立てること(世の補益)」とは、言い換えれば、「自己の可能性を最大限に伸ばし、そのことによって得た力と技を、それをどのように用いるかについての覚悟を育てる思想」に他ならない。 柔道が発展した理由は、技術体系の整理や理論の明快さだけではない。武術の中核にあった〈覚悟〉を、近代社会で共有可能な価値へと翻訳した点にこそ、その本質がある。

【現代武道とスポーツ ― 覚悟を失わない競技の条件】

現代の武道は競技化が進み、スポーツ的性格を強めている。この流れ自体を否定する必要はない。しかし重要なのは、競技化・スポーツ化の過程において、武道の中核である〈覚悟〉を失わないことである。

具体的には、「勝利しても相手の尊厳を損なわない態度」「技を単なる勝利手段ではなく、責任を伴う行為として扱う姿勢」「当たればよい、効けばよいという発想を排した技の選択」
これらはいずれも、競技の中で可視化されるべき〈覚悟〉の表れである。だが、武道を理解する者が競技スポーツを行う以上、競技の中に覚悟を体現する責任がある。

【判定基準見直しの前提 ― 覚悟を内在させる競技構造】

ここで、極真競技の判定基準について述べる。
私は、現行の判定基準を全面的に否定する立場ではない。武術にも競技にも、多様な形が存在してよい。しかし、そのいずれにおいても、「武術の修練による人格形成と〈覚悟〉の涵養」が成立していなければ、それは武道とは呼べないと考えている。だが、競技が「勝つための技の応酬」へと矮小化された瞬間、そこから〈覚悟〉は消え去る。

判定の軸は「有効打撃」 ― 覚悟を伴う技の評価

私が、極真競技の判定基準の中心に据えるべきだと考えるのは、「有効打撃(有効打)」である。

この有効打撃とは、単に当たった打撃ではない。相手との間合い、機、体勢、意志を統合し、結果を引き受ける覚悟をもって放たれた技を指す。

剣道における一本、柔道における一本が高く評価されるのは、そこに「見事な技」と同時に、技を行使する者の覚悟が可視化されているからである。

【ボクシングに見る〈覚悟〉 ― スポーツにも内在する思想】

スポーツであるボクシングにおいても、「クリーン・エフェクティブ・ヒット」が判定の軸となっている。ノックアウトは、その延長線上にある結果にすぎない。

その本質は、「正確さ」「効果」「技術」「技を放つ決断」にある。ここにもまた、技を行使する覚悟が内在している。だからこそ、ボクシングは単なる殴り合いではなく、競技として成立しているのである。

【極真競技の課題 ― 覚悟が見えなくなる構造】

現在の極真競技では、「打たれ強さ」「手数」「ダメージ耐性」が過度に評価されやすい構造が存在する。その結果、技を出す覚悟よりも、耐える能力や消耗戦が前面に出る傾向が強まっている。これは、武道としても、スポーツとしても望ましい姿ではない。

「ダメージ」ではなく「覚悟を伴う技」を評価する「一本」「技あり」「有効打」は、本来、覚悟を伴った技の強度差にすぎない。そこに極真競技は「ダメージ」という項目を独立した評価項目として置くことで、「有効打の本質が誤解され」「覚悟なき打撃が評価され」「競技が消耗戦へと傾く」という弊害が生じる。

私は、武道競技において評価されるべきなのは、相手にどれだけダメージを与えたかではなく、どれだけ「覚悟」をもって技を体現したかという事柄だと考えている。もっとも、技の効果としてダメージの大小を内包すること自体は否定されない。

例えば、一本には「大きなダメージという効果」が含まれる。また、技ありには「中程度のダメージ」が含まれる。そのような概念整理は可能である。しかし、人間教育としての武道、また高度なスポーツ競技を志向するならば、技の優劣の最終的基準は、ダメージではなく「見事な技と技能」、そしてそれを体現する者の覚悟でなければならない。それによってこそ、武道のみならず、スポーツ競技においても高い社会的価値が醸成されると私は考える。

【覚悟を可視化する競技へ】

格闘競技に〈覚悟〉が内在すれば、競技者は技を軽く扱わなくなり、観客は技の意味を理解でき、社会は競技に教育的価値を見出すことが可能となる。

抽象的な「強さ」ではなく、覚悟を伴った技と態度を評価軸とすることによって、格闘競技は社会全体の共有価値へと昇華する。それこそが、武道としての格闘競技が、現代社会において存在意義を持ち続けるための条件であると、私は考えている。

 

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