【戦争を知らない世代としての問い】
私は戦争を体験したことがない。戦争について知るのは、書物や映像を通してである。しかし周知のように、人類はこの百年以上の間、幾度となく戦争を繰り返してきた。
幸いにも私は、そのような惨禍を自ら経験することなく生きてきた。日本においても、第二次世界大戦の終結からおよそ七十年以上の間、大きな戦争は起きていない。しかし、これからも戦争が起こらないと誰が断言できるだろうか。
近年では、かつて想像の世界にしか存在しなかった人工知能が現実のものとなり、ある面では人間の能力を超えつつある。
それほど文明が進歩しているにもかかわらず、人類はなお戦争という手段を選び続けている。これはなぜなのだろうか。
【戦争と政治の現実】
軍事思想家クラウゼヴィッツは『戦争論』の中で、
「戦争とは、政治の他の手段による継続である」
と述べている。
今日、多くの政治指導者がこの言葉を公然と引用することはないかもしれない。しかし現実には、国家はまさにこの前提のもとに行動しているように見える。すなわち、軍事力による抑止によって戦争を回避しようとしているのである。
しかし抑止というものは、十分な軍事力を有する国家においてこそ機能する。軍事力の弱い国家にとって、抑止だけで安全を確保することは難しい。結果として、そのような国家はより強大な国と同盟を結び、その力に依存することになる。
そしてその代償として、強国の経済圏や政治的影響力の中に組み込まれていくことになる。
私は国際政治や地政学の専門家ではない。しかし直感的に感じるのは、経済圏の主導権をめぐる争いこそが、戦争の深い原因の一つではないかということである。
人間は誰しも、自由で便利な生活を望む。しかし、その自由や便利さを支える資源や富そのものが、同時に新たな争いを生み出しているのではないだろうか。
【競技という人間の文化】
スポーツや競技もまた、人間が自由を求める心から生まれた文化である。
競技では、参加者は共通のルールを受け入れ、その枠組みの中でより自由に行動できる者が優位に立つ。ここでいう「自由」とは、技術、体力、身体操作を含めた能力をより高度に発揮する力、すなわち競技スキルのことである。
ボールや道具を用いる競技では、それらを自在に操る能力が求められる。一方で、道具を用いない競技では、身体そのものが道具となる。体操や陸上競技、そして格闘競技はその代表例であり、ある意味で最も根源的な競技形態と言える。
私見ではあるが、このような身体中心の競技に惹かれる者は、自らの能力に対して過信を抱きやすく、その結果として排他的な態度に陥ることもあるように思われる。一方、ボールや道具を扱う競技では、それらを媒介とするため、多少なりとも客観性が働く場合もある。
しかし、このような分類は本質的な問題ではない。より重要なのは、「勝利への過度な執着」である。
実際、勝つことに過剰にこだわるほど、人は自己正当化に陥りやすいと私は感じている。
【勝利至上主義の再考】
私は長年、競技の価値そのものを見直す必要があると考えてきた。特に、勝利を絶対視する価値観は、競技の本来の意味を歪める危険がある。
競技の価値は、単に相手に勝つことにあるのではない。
それはむしろ、相手のみならず「自己を超えようと努力すること」「自己の可能性を追求し広げること」「極限状況の中で平常心を保つこと」「自らの技術と技能を確実に発揮すること」といった能力を育てることにある。
さらに重要なのは、「今日の勝者が明日の敗者になる可能性がある」という現実を深く理解することである。この認識を持つ者は、不断の努力の必要性を悟る。
そして、そのような経験を経た者は、対戦相手を軽んじることはない。むしろ、そこには尊敬と感謝が生まれる。
【技術と技能を尊ぶ競技へ】
このような関係が生まれるためには、競技の最高価値は単なる勝敗ではなく、技術と技能の発揮に置かれなければならない。
そのためには、技術を選択し実行するための高度な身体的・精神的能力を育てる競技構造と、それを正当に評価する理念を備えたルールが必要である。
しかし現実には、
「勝った者が強い」「勝敗こそがすべてである」という単純な結果主義が競技の世界を覆っている。
私は、競技とは本来、技術と技能を評価する場であるべきだと考えている。
もちろん、優れた技術を持つ者が必ず勝つとは限らない。競技には常に不確実性が伴う。しかし、そのような敗北は本質的な敗北ではない。その経験を自己改善の糧とするならば、それはむしろ勝利に近いものとなる。
真の敗北とは、自らの勝利を絶対視する心の中に潜んでいるものだ。つまり、そのような態度こそが、やがて敗北の種となるのである。
【格闘競技と人間形成】
競技の本当の意義は、敗北さえも糧として技術と技能を磨き続ける過程にある。
人間の判断や行動に絶対はない。だからこそ、人は不断に自らの判断力と行動力を鍛え続けなければならない。
この過程こそが人間形成であり、人格形成である。
そしてその過程の中で、戦った相手への尊敬の感情が自然と生まれてくる。
【格闘競技が示す自由】
私は、人間が経済力や軍事力によって得る自由ではなく、格闘競技の中で体験する自由こそが、より本質的な自由であると考えている。
格闘競技では、人は恐怖、劣等感、怒り。侮蔑といった強い感情を制御しなければならない。
さらに、ルールを守る倫理と、不確実な状況の中で判断する能力が求められる。
これらの経験は、人間の判断力と行動力を鍛える重要な訓練となる。
【格闘競技の哲学の転換】
格闘競技とは、単に相手にダメージを与える力の競争ではない。
それは、自らの身体という道具を高度に使いこなす技能を競う訓練であり競争である。
この理解が格闘競技の指導者やリーダーの間で共有されるならば、格闘競技は不確実な状況の中で判断し、感情を制御する能力を育てる文化となるだろう。
【未来への提言】
私がここで提案しているのは、格闘競技の理念と哲学の転換である。
現時点では、この考えに賛同する人は多くないかもしれない。しかし私は、この思想を今という時代だからこそ残しておきたい。
人工知能が発達し、人間が判断を機械に委ねる時代が訪れるかもしれない。そのような時代にこそ、人間自身の判断力と精神を鍛える文化が必要になる。
人間は失敗する。判断を誤る。敗北する。
しかし、その可能性を受け入れ、謙虚に自己と向き合うならば、平和は保たれるだろう。
理想を追い求め続けること。
そして、絶え間ない努力を続けること。
それこそが、人間と社会をより良い方向へ導く力になるのである。













