[第72号:2024-5-24]
第72号の内容
- 巻頭コラム:生涯一書生(として)〜極真道
- 特集その1:倒し技
- 特集その2:極真空手の伝統技を組手で使用する〜第1弾
- 特集その3:極真道(拓心武道)の稽古法
- 第2回 ヒッティングスポーツ研究&交流会の参加者の体験談
- 増田道場会員へのお知らせ〜5月12日昇級審査会の結果
- 編集後記 第72号
巻頭コラム:生涯一書生(として)〜極真道 (As a student all my life~Kyokushin-do)
私は時々、大山倍達先生の修行時代に思いを馳せる。大山倍達先生は40代に極真会館を創設するまでは、さほど有名ではなかったらしい。しかしながら、劇画の主人公となったり、空手ブームが興ったりする幸運に恵まれ、極真空手を創始した。そのようにご家族から伺った。また、毛利松平という、政治家と知己を得て、その尽力により、人脈を得たようだ。その後、亡くなるまでの20〜30年間、大変だったと思う。また、その期間は、ほんの僅かな期間だ。62歳となった私には、そのように思える。40代の頃には理解できなかったことである。
私は今、大山倍達先生の幼少のころから40代までの人生に興味がある。その理由は、大山倍達先生の業績の基盤は、時代の後押しのみならず、みんなが知らない、40代までにでき上がったと思うからだ。だが、今の私にできることは、大山先生が残した書籍の中から、その修行時代と思想を想像することぐらいだ。
ただし、それらの書物の制作に関しては、優秀な編集者とカメラマンとのサポートの力が大きいことを私は知っている。そのことを含めても、私はまざまなことを想像する。その想像は、大山倍達先生の修行時代の純粋さ、そして極真会館創設後のさまざまな苦労があっただろうということだ。そして、私はそのことに対し、尊敬と感謝の念を抱く。
それゆえ、現在の大山倍達先生の弟子たちに不満である。あまりにも想像力が無さすぎるからだ。そして、私の願いは極真空手の社会的価値を高めることである。現在、多くの極真空手家達は頑張っているようにも見える。実際、頑張っているのだろう。だが、その方向性とあり方に対し、私は疑義がある。だが、私の考えは理解され方もののようだ。それでも、あえて言っておきたい。私には現在の極真空手が大山倍達師範が望んだ理想ではないだろう。もちろん、大山倍達先生は、私の考えにも賛同しないかもしれない。それでも、もし、大山倍達先生が生きていたら、私の考えを受け入れてくれるかもしれない、といつも研鑽と努力をしてきたつもりだ。また、私は大山倍達師範が亡くなる数ヶ月間に、不遜ながら、総裁室で「私の夢は極真空手を世界最高の空手にすることです」と宣言した。
私は、それを実現するために、極真空手の新しい価値を創造しなければならないと思っている。そう思って、すでに30年以上が経った。だが、大した結果を残してはいない。私は不甲斐ない自分が恥ずかしいが、頑張ってきた。そして、最期にもう一度、理想に向かって挑戦したいと思っている。それは、本当に高い理想である。年老いた私には無理なことかもしれない。それでも、幼い頃に思った、真理を知りたい、という希求がいまだ衰えない。また、老いて身体能力が若い頃の半分以下となったが、そこで初めて真理が見えてきたような気がする。私は今、「老い」が真理を理解する道だと信じて生きていきたい。また、仲間を作り実践を繰り返し、その仲間達と共に議論を交わし、想像力を高めていかなければならないと思う。故に、私は拙い意見、哲学を示し、仲間を求めていく。そして、若かりし頃の大山倍達先生と同じく、「一書生として」、理想を目指し続けて生きていきたい。
【武道の意義と極真道】
私は、武道の意義とは、本来、道徳的な教えを説くことではない、と考えている。もちろん、武術を体得する者に道徳性、倫理性がなければ、武術は単なる暴力で手段となる。故に武術(スキル)の習得と共に、道徳性、倫理性を合わせて体得することは、武芸者に必要なことかもしれない。
だが、武道とは、武芸(スキル)を極める過程において、培われる感性と哲学を、より高次なレベルへ昇華していく方向性を有する、武術修練のことだ。私はそのように定義している。
それゆえ、より高い次元の武道とは、武術の修練による、感性と哲学から、内発的に倫理観や道徳観が生じるでなければならない。そういう意味では、極真空手は未だ武道にはなっていない、と言っても良いだろう。故に、私は武道の原点に立ち戻り、武術(スキル)の修練をこころがけたい。そこから自分を見直し、そして自己を再構築していく。それを拓心武術、拓心武道と名付けたが、今後は「極真道」と言っていきたい。
【生涯一書生】
最後に、武術とは本来、すべからく、道具(武器)への対応と活用を想定して行うべき、である。それが拓心武道の考え方である。また、本来の空手であったと思う。だが、それが完全に変質してしまった。広めるためには仕方のないことかもしれない。
しかし、そこにはすでに武術としての思想はない。哲学的にはかなり幼稚であることは否めない。良いところは、体力、気力の向上には効果があるということだ。また、見た目が美しい蹴り技は魅力だ。それで十分ではないかといわれるかもしれない。だが、私にはもう少し、武術の理にかなった、高度なスキルが欲しい。私は、そう嘆く前に、古流の極真空手の技を尋ね、徒手格闘技の原点に立ち戻って、修練をしたい。残念ながら、すでに身体が壊れてしまったので、大した修練はできない。だが、その動かない身体に謝りたい。「これまで自分勝手に使ってきて申し訳ない」と。そして、改めて身体に感謝し、もう一度、身体にパートナーとして助けてもらいたい。「生涯一書生」として、最期を迎えるために…。
(増田 章)
As a Student all my life ~ Kyokushin-do
I sometimes think back to the training period of Oyama Masutatsu Sensei. Apparently, Oyama Masutatsu Sensei was not particularly famous until he founded the Kyokushin Kaikan in his 40s. However, he was fortunate enough to become the protagonist of a manga and to have a karate boom, and he founded Kyokushin Karate. That’s what I heard from his family. He also became acquainted with a politician named Mori Matsudaira, and through his efforts, he gained a network of contacts. I think that the 20 to 30 years until his death were difficult. And that period was only a short time. Now that I’m 62 years old, that’s how it seems to me. It’s something I couldn’t understand when I was in my 40s.
I’m now interested in Oyama Masutatsu Sensei’s life from his childhood to his 40s. The reason is that I think that the foundation of Oyama Masutatsu Sensei’s achievements was not only supported by the times, but was established by his 40s, when not many people knew about it. However, all I can do now is imagine his training period and ideas from the books he left behind.
However, I know that the production of these books is greatly supported by excellent editors and photographers. Even with that in mind, I imagine many things. I imagine the purity of Oyama Masutatsu Sensei’s training period, and the various hardships he must have faced after the establishment of the Kyokushin Kaikan. And I have respect and gratitude for that.
Therefore, I am dissatisfied with the current students of Oyama Masutatsu Sensei. They have too little imagination. And my wish is to increase the social value of Kyokushin Karate. Currently, many Kyokushin Karate practitioners seem to be working hard. In fact, they are probably working hard. However, I have doubts about their direction and way of being. However, my thoughts seem to be understood. Still, I would like to say this. I don’t think that the current Kyokushin Karate is the ideal that Oyama Masutatsu Sensei would have wanted. Of course, Oyama Masutatsu Sensei may not agree with my thoughts either. Still, I have always tried to study and make an effort, thinking that if Oyama Masutatsu Sensei were alive, he might accept my thoughts. Also, a few months before Oyama Masutatsu Sensei passed away, I declared in the president’s office, “My dream is to make Kyokushin Karate the best in the world.”
I believe that in order to achieve this, I must create new value in Kyokushin Karate. More than 30 years have passed since I thought this. However, I have not achieved much. I am ashamed of my own lack of ability, but I have been working hard. And, at the end of my life, I would like to challenge myself once more toward my ideal. It is a truly lofty ideal. It may be impossible for me to achieve at my old age. But still, the desire to know the truth that I had as a child has not weakened. Also, as I have grown older and my physical abilities have become less than half of what they were when I was younger, I feel that I have finally seen the truth. Now, I want to live believing that “old age” is the way to understand the truth. Also, I think that I need to make friends, practice repeatedly, discuss with them, and improve my imagination. Therefore, I will present my humble opinions and philosophies, and seek friends. And, just like Mas Oyama Sensei in his youth, I want to continue living my life striving for my ideals ”As a student.”
【The meaning of Budo and Kyokushin-Do】
I believe that the significance of martial arts is not to preach moral teachings. Of course, if the person who masters martial arts does not have morality or ethics, martial arts will simply be a means to violence. Therefore, it may be necessary for a martial artist to master morality and ethics as well as martial arts (skills).
However, martial arts are martial arts training that has the direction of sublimating the sensibility and philosophy cultivated in the process of mastering martial arts (skills) to a higher level. That is how I define it.
Therefore, a higher level of martial arts must be one in which ethics and morality arise intrinsically from the sensibility and philosophy that come from martial arts training. In that sense, it is fair to say that Kyokushin Karate has not yet become a martial art. Therefore, I would like to return to the origins of martial arts and strive to train martial arts (skills). From there, I will reexamine myself and reconstruct myself. I named it Takushin Bujutsu, Takushin Bujutsu, but from now on I would like to call it “Kyokushin-do”.
【As a student all my life】
Finally, martial arts should always be performed with the expectation of responding to and utilizing tools (weapons). That is the idea behind Takushinbudo. I also think that this was the original form of karate. However, it has completely changed. This may be inevitable if we want to spread it.
However, it no longer has the idea of martial arts. Philosophically, it cannot be denied that it is quite childish. The good thing about it is that it is effective in improving physical strength and willpower. Also, the beautiful kicking techniques are attractive. You may say that this is enough. However, I would like to have a more advanced skill that is more logical in martial arts. Before lamenting this, I would like to consult the techniques of old Kyokushin Karate and return to the origins of unarmed combat and train. Unfortunately, my body has already been broken, so I cannot train much. However, I would like to apologize to my immobile body. “I am sorry for using it selfishly until now.” And I would like to thank my body once again and ask it to help me as a partner once again. To meet my end “As a student all my life”…
Akira Masuda
会員へのお知らせ
- 5月12日昇級審査会の結果のページ(会員専用教本サイト)
- 指導員の皆さんへ〜組手型と組手練習法をIBMA空手チャンネル(これからデジタル教本にも掲載します)に掲載しますので、見て稽古法に取り入れてください。
受審者の皆さんへ
審査会お疲れ様でした。今回の審査会は、これまでの審査会とは異なり、審査途中に増田(章)が指導を行いました。その理由は、皆さんになんとしてでも黒帯を取得していただきたいと思ったからです。異例のことで、受審者には戸惑いもあったと思います。
少年部の保護者の皆さんにおかれましては、帰宅が遅くなり申し訳ございませんでした。そして繰り返しお伝えします。全員、確実に上達しています。また、必ず黒帯を取得するだけの力があります。ただし、あともう少しだけ、認識を変えれば良いだけです。
しかしながら、この認識を変えるという点が困難です。多くの人が細かい点を理解していません。細かいことを理解するには教本の動画を見たり、読んだりすることが必要です。つまり、教科書や参考書を見て、自分で学習することが必要なのです。現在、教本サイトは不十分です。さらに内容を深く、豊富にしていきます。
あとは、会員の皆さん一人一人がそれを活用するだけです。このことは、すでに有段者となった人たちも同様です。私も含め、全ての人が、絶えず技術の研究、技能の習得、理論の修正と理解に努めなければ、技術は劣化し、技能は衰え、理論は間違ったものとなってしまうでしょう。ゆえに、増田道場の会員は、絶えず理想と完成を目標に、努力を続けて欲しいと思います。
さらに述べれば、未完成、未熟を覚悟しながら、理法を求め、理想と完成を目指し続ける。そのようなあり方にこそ、高い人間的成長があり、本当の上達があるのだと思います。このことは、空手や武道に限ったことではなく、全ての道に通底する、天地自然の理法(真理)の一つだ、と私は考えています。
増田 章
特集その1:倒し技
特集その2:極真空手の伝統技を組手で使用する〜第1弾
特集その3:極真道(拓心武道)の稽古法
この練習は、拓心武道の基本練習です。組手稽古と併用して行うと効果的です。この他にも、同様の練習法が数多くあります。組手のレベルを向上させ得たい方は必見です。
組手型の紹介
第2回 ヒッティングスポーツ研究&交流会の参加者の体験談〜第2弾
No,1
No,2
増田道場の会員へのお知らせ
研究会&交流会の動画
編集後記 第72号 (→英訳版 English translation(アベマブログ)
先日、62歳となった。見た目にはわからないようだが、毎日、肩、腰、膝が痛い。
歩くことで精一杯だ。膝は完全に曲がらない。曲げようとすれば痛みが酷い。
それをカバーするためには、筋トレは欠かせない。
幼少の頃から、継続する筋トレは、今では多くの人が実施している。そして、筋トレの知識や環境は大きく進歩した。私は、筋トレは幾つになっても必要だと考えている。また、筋トレがもたらす恩恵は、今後ますます、周知となることだろう。
私の場合、膝関節に負担をかけないよう、臀部をはじめ、下半身の強化が欠かせない。
だが、何回も繰り返した、ヘルニアの影響と下肢静脈の手術後から、どうしても筋肉がつかない部分があるようだ。また、若い頃に比べると、筋肉の形が変わった。普通の状態なら、もっと筋トレの効果はあるはずだ。今、ネガティブなことばかり述べているが、障害のおかげで、これまでとは異なる、動き方をしている。これは誰にも教えていない。まだ、秘密としたい。だが、私を観察すれば、理解できるはずだ。しかし、誰も私と同じ動き方をしないところを見ると、必要がないのと観察力がないのだと思っている。これは、「教えない教え」として残しておく。
とはいうものの、走ることさえままならない、私の若い頃の3分の1程度に低下した、体力は、今後、さらに低下するに違いない。いつまで、もつだろうか?その前に、内臓が壊れて、死んでしまうかもしれない。再び、ネガティブなことを述べているが、それを理解しているから、もう暴飲暴食はしない。また、何よりストレスを溜めない生き方を考えている。だが、ストレスは無くならない。私の念頭にあるのは、ストレスの根本にあるものが、自分を護ろうとする防御反応ではないかということだ。したがって、ストレスは無くならない。否、必要だとも思う。だが、よくないのは、極端に自分を護ろうとすることがよくないのではないかと直感している。そして、その本質は、自分を大事に考えすぎることではないかと直感している。その意味は伝わらないかもしれないが、私は自分を異常に大事にしてはいけないと思っている。その代わり、自分をなるべく自然の状態に近づけることを心がけたい。それは、身体の状態のみならず、心の状態も同じである。その意味では、身体に筋肉をつけすぎるのは良くない。また、心の中に願望を抱きすぎるのは良くないことだと思っている。もちろん、大きな願望を持つことが良くないと言っているのではない。あくまで、その願望が天地の理法に適っていて、その人の器に適合していれば良い。
換言すれば、天地の理法に照らして、自分にとって、どんなことが一番幸福に感じるか?また、なにが、自分にとって一番欲しいものか?を知ることだ。そして、それが少ないほど良い。否、なるべく一つに絞ることだ。言うまでもないが、生理現象や生命維持に最低限必要なことは除く。
私はかなり絞り込んでいるが、まだ一つにはできない。諸々のことがあるからだ。だが、それらを整理していくのが、私の「老いの流儀」だ。
今年、息子が実家を離れた。高校生以降は、反抗期なのか、私と接することを避けているようだった。それでも私は、「愛してるよ」と言い続けた。同様に、娘も反抗期のようだ。私とまともに会話しない。実は反抗期ではなく、私の人間性に問題があるのかもしれないが…。私は、娘にも「愛してるよ」と毎日、言ってきた。普通に考えると変わった父親だ。
もしかすると、私は変人かもしれないと思っていた。しかし、娘が意外にも、私の誕生日にバイト先のケーキ屋さんから、誕生日用のケーキを買ってきた。また、普段電話にも出ない息子が「たんおめ」(誕生日おめでとうという意味だろう)と短いメールを送ってきた。私はとても嬉しい。今、私にとって、一番大事なことは、極真会館の仲間達が、家族だと認識し生きていくこと。そして、その実現に、私が少しは役に立っていると実感できることかもしれない、と思っている。