文と武と道

IBMA極真会館サイト

 2015年03月01日アメーバブログに掲載したものです。

 
 昨年末から体調が良くないのと、手術した膝の回復に時間がかかっている。
あわせて、私の道場のサイトの更新にあわせてサイトのリニューアルを自力で試みていた。大体200時間以上を要した。おそらく、私が私淑する、盛和塾の稲盛和夫先生なら、「ばかたれ、そんなことに時間を費やしているんじゃない」と一喝するにちがいない。だが、自分でやるしかなかったのだ。ゆえに数年前から言い続けている、教本の製作が遅れている。また、出版の企画も頓挫の状態だ。毎日、パソコンと睨めっこし、胃をキリキリさせ、胸が息苦しい。そんな状態だから、当然ブログやフェイスブックも後回しだった(今回、約2ヶ月ぶりのブログ更新である)。ようやく視界が少し晴れてきたように感じる。

 しかし、道場の仕事やその他にも整理しなければならない仕事がある。正直、一人でやれば、心身が危ない(膝の怪我も同様である。私はいつも無理をするのだが、もう若くはない…)。しかも金銭的な利益にはならない(損出はあっても利益にはならない)。

 本当に愚の骨頂のような有様だ。なんとかして、生き延びる方法を考えなければならない?その方法は?「勇気をふるって、ほんとうに必要なもの以外は捨てることだ」と思っている。だが、愚か者の私には、それができない。

 実は10年以上も前に、あることを悩んでいて、稲盛先生に助言を求めたことがある。その時の稲盛先生の応えは、「お前、ガダルカナルの話(ガダルカナル島の戦い)を知っとるか」だった。その時の私の反応は「はあ?名前だけは」という恥ずかしいものだった。

 私の幼少の頃、近所に小谷さんという、1年年長のお兄さんがいた。私は小谷さんが大好きだった。よくプラモデルで遊んだ。小谷さんは、お父様が船乗りでジャズと船のマニアだった。確か、お兄さんが2人いて、一人が京大生だたっと思う。私は、彼のもたらす知識、情報にとても憧れを抱いたのを、今も憶えている。その小谷さんの影響で、戦記(”丸”という雑誌やその他の戦記物)をたくさん読んだ。なのに、「ガダルカナル」と言われて、その示す意味がわかっていなかった。「ガダルカナル」といえば、旧日本軍による戦略的失敗の代名詞だったのだ。私は家に帰り、書棚から数冊を手に取り、ページをめくりながら、稲盛先生のアドバイスの意味を噛み締めた。

 もし、日本軍の戦略的失敗の代名詞のような『ガダルカナル」について興味があれば、インターネットでガダルカナル島の戦いの話を調べて欲しい。

 ここ数ヶ月、私の心の中に「何が一番重要か」という問いかけが鳴り続けている。私には答えが見つかっている。今後、その見つけた答えを表現していきたい。しかし、その答えを実行、表現するには、少しの勇気と準備が必要だとも思っている。まあ、人の評価を気にしないでやれれば問題ない(だが私は、人の目を人一倍気にする性質だ…ゆえに変身が必要??)。

 最後に、私に残された時間は多くない。まずは身の回りを整理したい。そして、何年か後に、武蔵が霊眼洞に籠もったように、武道家として最後の仕事をしたい。久しぶりのブログなのに、陰鬱な話で申し訳ない。ここで話は終わりである。以下は付録だ。

 今回、私の著書でカットされた、草稿の一部を紹介したい。原稿は、6年前に書いた原稿で、加筆修正を加えたい部分もある。しかし、6年前の自分の姿が懐かしく思えた。

文と武と道(「増田章、吾、武人として生きる(拙著)」の草稿より〜ボツ原稿)

【文武】
 「文武に徳と芸との本末あり。仁は文の徳にして文芸の根本なり。文学礼学書数は芸にして文徳の枝葉なり。義は武の徳にして武芸の根本なり。軍法射御兵などは芸にして武徳の枝葉なり。根本の徳を第一につとめてまなび、枝葉の芸を第二にならひ、本末かねそなはり文武合一なるを、真実の文武といい、真実の儒者という也。文芸ありて文徳なきは文道の用にたたず、武芸ありて武徳なきは武道の役にたたず。例えば根なき草木の実をむすぶにことあたはざるがごとし。」[翁問答/中江藤樹(日本思想体系)]

 日本陽明学の始祖である中江藤樹によると、現代の定義で言うと「文」すなわち文学や詩歌などの根本に「仁」がなければならないという。また、「武」すなわち武力や各種武術の根本に「義」がなければならないという。

【仁とは?義とは?】
 「仁」とは辞書的には「いつくしみ」「思いやり」であるが、中江藤樹は陽明学的「万物一体の仁」を意識していると考える。よって、ここで言う「仁」は、キリスト教の「愛」の概念、仏教の「大慈悲心」と類似のものと考えて良いだろう。「義」とは、辞書的に「人として行うべき正しい道」であるが、「人間として正しい行為(行い)」というように私は考えている。義に関しては後で項を割く。
 古から今日まで、文も武も格段の進展を見せている。しかし、それは中江藤樹の謂うところの文芸、武芸の領域であろう。しかし、その核心に、「仁」そして「義」が捉えられているだろうか。

【文武一徳・文武一道】
 私は、翁問答で「文武一徳」を説く中江藤樹と同じく「文武一道」を説く立場である。わが国の歴史に、武士という種族の長期にわたる支配があった。その体制イデオロギーとして、「御恩」「奉公」というものがあった。そして、武士の支配が長期に亘った過程において「武士道」という支配階級の倫理観が育まれた。その武士道に内包されるものが「文武両道」という行動規範だと考えている。
 しかしながら、昨今、そのような倫理観を支配階級(リーダー)に求める意識が希薄になってきているように思う。その原因には、リーダー意識の喪失、あるいは嫌悪があるように思う。私の浅薄な想像であるが、先の世界大戦により、リーダーシップに対して懐疑心があるのかもしれない。その一方で、今も存在する各界のリーダー(支配階級)に、おもねり、全てを依存しきっているかの観がある日本国民には、正直ふがいなさを感じる時がある。
 国家を含む人間社会のあらゆるジャンルが進展する中、各界のリーダーは「文武一道」を心掛けなければならないと思う。それには、一人ひとりに主体者意識(リーダー意識)を育もうとする姿勢が必要であろう。

【愛を育むことを根本に、勇気を持って人間として正しい行いを行なうこと】
 前述の「翁問答」には、「文道をおこなわんための武道なれば、武道の根は文なり。武道の威をもちいておさむる文道なれば、文道の根は武なり。そのほか万事に文武の二ははなれざるものなり。」(中江藤樹)ともある。私は、古人が考えたように、「愛を育むことを根本に、勇気を持って人間として正しい行いを行なうこと」が文武一道の意味、同時に文と武の眼目であると思うのである。

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