横綱の品格とは何か?

2017年12月01日
横綱の品格とは何か?〜ある相撲好き武道家の考え

 【「品格」とは何か?】

 「横綱の品格」と世間が喧しい。品格とは、誰かが言うような「礼儀礼節」「相手を尊重する態度」など、そんな紋切り型の言葉で表されることなのだろうか。私の考えは否である。そんなことなら、この作法はだめ。この作法は良いとして、作法として明確に規定すれば良い。
 私が考える「品格」とは、一人の人間の立ち居振る舞い、言動から香る「何か」である。それでは多くの人が理解できないに違いない。ゆえに、私は前回のコラムで天皇陛下のあり方を例えに出した。なぜなら、現在の国民統合の象徴としての天皇のあり方が、大相撲の力士統合の象徴としての横綱として、最もわかりやすい「品格」の手本だと、私は考えたからだ。
 しかしながら、そう定義すると、そもそも力士に品格の備わった者がいるのだろうか。倒した相手に敬意を忘れない。けがを負わせるような倒し方は極力しない。決して勝ち誇らない。などなど、そのようなことを、作法としてではなく内発的に行う者が、品格という評価に一番近いかも知れない。しかし、それでも疑問が多く残る。ここであえて品格の定義を試みたい(稚拙な定義だが)。そこから「横綱の品格」についての考究を始めてみたい。つまり手がかりとして、品格の定義から始めるということだ。最終的な定義ではない。あくまで考えるための手がかりである。まず、品格とは「人や仲間に対する仁愛を核に、全体における自己の役割を最大限に果たそうとする義務感(心根)で行動する、その人格から香る匂い」としてみる。再考は必至だとは思う。また「匂い」というのが抽象的すぎると思われるに違いないが、そもそも品格とは抽象的なものなのだ。また私自身、いかに品格がないかが見えてくる。
 
 本論に入る前に少し脱線する。大相撲の世界は、あまりにも不明瞭に思える。アメリカの大リーグには分厚いルールブックがあり、事細かに規定があるらしい。表向き、自由を重んじ多様な民族を受け入れている国家の方が、ルールが細かく決められ、行動を規定されている。このことを日本の識者が真剣に考えて欲しい。賛否は別れると思うが、私は誰が見ても納得に行くよう明確にルールを決め、それによって物事を民主的に判断するということを基本とする方が良いと思っている。おそらく、我が国は長い間、均一的な価値観が共有されてきた国のようだ。ゆえに物事をルールでがんじがらめにすることに抵抗があるに違いない。しかし、ルールはあくまでも手段であるとの前提に立つことである。おそらく日本人は、一度決めたルールは変えてはいけないというような価値観があるのであろう。現代は多様な価値観が許容されている。ゆえに大相撲の力士のあり方のみならず、それを見るもの(観客、ファン)の見方も多様であろう。ならば、アメリカ社会同様、ルール変更を前提に、ルールを明文化したら良いと思う。しかし大相撲は、何千年も前の古から連綿と続く、日本の文化、伝統である。それは変えられない、という者がいたらこう言いたい。全く変化していない伝統などどこにあるのか、と。むしろ、たゆまぬ改善を続けてきた文化が伝統文化として、生き残っているのではないのか、と。

【誰が言い始めたのだ、品格ということを】

 話を戻したい。もし相撲協会が「横綱の品格とはこうだ」「大相撲はこうあるべきだ」と、唱えるものが明確にないから、時々、横綱の立ち振る舞いに関して物議が起こる。おそらく、目利きの大相撲ファンの中には、それが見えているのかも知れない。しかし、目利きのみがわかれば良いということでは済まされなくなってきているように思う。私は、大相撲の世界に生きる親方衆に品格の認識がないように思える。そして品格に限って言えば、親方衆も明確に把握していないと思ってしまう。否、そもそも理解することは困難なのかもしれない。なぜなら、そもそもモデルがないからだ。一体、誰が言い始めたのだ、品格ということを。
 私は、それを明確にしたい。それには、まずモデルを提示し、イメージを共有しなければならない。ただ先行するイメージがあると、かえって話はまとまらないかも知れない。しかし一度は、そのモデルを元に語り合ったら良いと思う。メディアもそのような試みを一度おこなったらどうだろうか。これまでの大相撲の諸問題は、物差し(判断基準)が明確でないまま、単なる大衆芸能ネタ同様の次元で語り合われているような気がする。
 今回の日馬富士の暴行事件には、勝負に生きる者の大変ドロドロした情念の問題が横たわっているようだ。それこそが、誰かが言った「膿を出す」ということだろう。そこに「横綱とは?」「横綱の品格とは?」という訳のわからない概念が加わって、余計にややこしくなっているように思えてならない。もし、大相撲界が品格という言葉を取り下げるならば、暴力は当然のこととして、全てコンプライアンスという尺度で判断すれば良い。だだそれだけだ。
 そもそも横綱は実力で上に登った者である。つまり横綱は、常人には想像を絶する厳しい世界の中を生き残り、上に上り詰めた覇者である。品格がないのが普通と言った方が妥当である。我が国の封建時代の武将を見れば明らかである。おそらく能力や人徳はあったのだと思う。白鳳然りである。しかし、その白鵬に品格という概念を当てはめると、途端にその枠からはみ出てしまう点が多くある、と多くの者が思っている。

 補足を加えれば、人徳と品格は厳密に言って別物だと思う。さらに誤解を恐れずに言えば、権力を有する人間に人徳はあっても品格はないこともありえる。また品格はあっても権力はないということがあり得ると、考えている。私は、品格という言葉をそのように考えている(人徳という言葉は非常に抽象的かつ曖昧で好きではない言葉だ。例えば政治家のグループの長には人徳がある??)。

【横綱の品格とは】

 さて、これから大相撲の横綱の品格とはどのようなものなのかを明確にしていきたい。でなければ、品格という尺度により人を批判する時、どのようにはみ出しているか、理解できない。そして、当事者は一体何を批判しているのだろうと思ってしまうだろう。もしかすると、モンゴル人の白鵬には、そのはみ出している部分が理解できていないのかもしれない。問題は、白鳳の数々の横綱らしくないと言われる行動が、確信犯的な行動であるかどうかである。もしかすると、モンゴル人の白鵬にとっては自然なあり方なのかもしれない。
 全ては、大相撲関係者が、外部から示された横綱の品格というものを理解していないということの証明のように思えてくる。おそらく、大相撲協会が横綱の不祥事を処理する際、品格という抽象的な言葉で、無理に体裁を整えようとしたことから、話がややこしくなってきている。
 その時に、明文化するべきであったかも知れない。今回の問題は、相撲取りであっても社会においてプロの職業人である。その者たちにコンプライアンスが求められるのは当然である。まず、その部分で協会が処理する。私の感覚では、様々なことを配慮し、引退処分は厳しすぎると思っていた。勿論、厳罰は必要だが。しかし、本人から引退してしまった。これは協会がしっかりと対応する問題である。そこが最も良くない。理事長や親方の責任問題である。結果、問題の本質の隠蔽となってしまった。おそらく、今回の事件はそれ以上のことが想定されるから、理事会としては大変なのであろう。しかし外部には、それがいじめ問題なのか、親方と親方、また親方と力士の確執なのかが見えない。国技を司る公益法人として数々の恩恵にさずかる大相撲協会としては、今回の件がこんなに不透明なのはよくないことである。
 また今回の問題で、大衆の大相撲を見る眼に、私は国民の民度を見る思いである。やはり品格という言葉が抽象的すぎる。それを関係者(親方)が理解していない。例えば、それが戦いの作法を指すのか。それとも言動を指すのか。それとも両方を指すのか。それを明確にルール化するしかないだろう。

【芸道者における品格〜世阿弥の風姿花伝の教え】

 それでは私の考える横綱の品格について述べてみたい。私は横綱の品格とは芸道を究める者の心と技の次元から湧出するものを判断する事柄だと考える。
 日本人が見る芸道における品格とは、その技のみならず、立ち振る舞いが時分の花ではなく、修業の段階を経て到達される、真の花を有していること。さらに幽玄の風(スタイル)に達していることから醸し出されるものである。
 実は私の芸道に対する考え方の根底には、私淑する世阿弥が残した風姿花伝の教えがある。世阿弥が言うところの花という概念。それが大相撲にも当てはまると考えている。これは、時分の花(若い頃の才能に根ざした技、個性)のみならず、真の花(修業の果てに到達した技、個性)を目指すことである。また、さらに上の技の位として、幽玄を設定することである。ここまで書いて、世阿弥を知らない人には理解困難かも知れない。
 あえて話を進めたい。世阿弥は奥伝として「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」という言葉を残している。私流に言えば、言葉にしないで、秘密裏に行うから花となる、と言うことだと思う。私はそこに芸道の究極を見る。
 つまり「品格」と言えばいうほど、品格の醸成から遠ざかる。まずは作法を整えることが必要だろう。また横綱の品格と優勝回数などの実績の評価を別にした方が良い(実績の評価は評価ですれば良い)。その上で、横綱の品格とは、一瞬一瞬、その場その場の土俵において、観る者が全身全霊で感じ取るものではないかと思うのだ。
 そのような目利きのみの話を、万人に理解させようとするところに無理があるかも知れない。ただ私のような凡人に理解できるのであるから、大衆も理解できるはずである。しかし、そうなると花の価値、そして感動が薄れるということが、世阿弥の教えに含意されているのであろう。
 もしそうなら、横綱の品格をコンプライアンスの問題の隠蔽に利用するのではなく、正当な芸の評価のためにこそ使うべき概念ではないか。大変僭越だが、大相撲ファンの有識者がそこを再認識する必要があると、私は思う。また古くから、大衆向けの日本版エンターテインメントの代表とも言える大相撲に能の芸道論を当てはめるのには無理があるかもしれない。ならば、こう言いたい。そこまで考えて「品格」を語るか、あるいは「作法」と割り切り、その作法を事細かに規定し、その行動を縛った方が現実的であろう。
 

【日本人が見る「品格」とは?】

 要するに日本人が見る「品格」とは、長い歴史的経験、自然や人間の交流、様々な事物が交錯し、相互作用しつつ醸成された心である。つまり人間が自己、他者、社会、自然、歴史との関係の中で育まれるエートスのようなものかも知れない。すなわち、日本人の自然観である「自ずから然る」という感覚こそが何千年もかけて醸成され、承継された日本人の心性の本体である。
 しかしながら、モンゴルの人にもモンゴルの心性があるのだ。それを尊重し丁寧に、かつ明確に日本人の美学を伝えなければならない。体で理解しろというのは、少し乱暴であるように思う。それは、日本の心を喪失しつつある、現代の若者、大衆に対しても同様である。
 大横綱・貴乃花、その土俵の上での立ち振る舞いは、まさしく世阿弥の芸道を行くような感がある。一方の横綱・白鵬が日本の芸道を極めようと懸命なのは理解できる。しかし、私にはその中心にある、「自ずから然る」すべてのものが一体となり、そこから育まれる何か。そして、それを表現する技、立ち振る舞いが「日本の心」なのだとの理解がなされているかという点で疑義がある。日本人は太古から自然と一体化しようと生きてきた。自然と向き合う点は、人類の共通点ではあるが、それを征服するものではなく、それを自らの中に取り入れ、一体化しようとしてきたところに日本人の心性がある、と私は考えている。私が何を言いているか、わからないと思う。それは私の筆力が足りないことによる。申し訳ない。

【敷島の大和心を人問わば朝日ににおう山桜花(本居宣長)】 

 しかし私は、大相撲の問題から、「今後も日本人の美学を承継するか否か」、そう問われているように思えてならない。同時に「日本の美学を次世代の若者に了解させるか否か」という問題が問われているようにも思う。もし了解させたいならば、識者が丁寧に説明をし、明文化するのも一つだが、評論家自体が命懸けで、その芸を評価することである。そうすれば、自ずから花が育つかも知れない。結局、私自身、考えてみても「品格」に対する明確な定義はできなかったように思う。ただ、私の心の中に今、浮かび上がる本居宣長の歌がある。本居は「敷島の 大和心を 人問わば 朝日ににおう 山桜花」と歌に読んだ。つまり日本人の心性、美学とは、その美しい姿のみならず、自然とともにある、その個性(山桜)の中から香るものを感じる感性だということだろう。

【品格よりも大切なこと】

 ここで再認識しなければならないことがある。大相撲の世界は、エネルギー、生命力が強いものしか生き残れない世界である。ゆえにその世界で生き残り、実力者となった者の少々のはみ出しは当たり前である。ゆえに、白鵬が「我こそは帝王」という風に誇るのは当然であるかもしれない。ゆえに、それも良しである。白鵬は誰よりも努力家に違いない。それは十分に尊敬に値する。
 おそらく大相撲の世界に限らず、スポーツ界や政界も含め、実力が物言う社会は同様であろう。ゆえにメディアを始め、我々大衆も、少々の暴発は受け入れる必要があるのかもしれない。それを無理やり、品格という鋳型にはめるのなら、今回の件では、もっと明確に説明しなければならないだろう。
 私の感覚からすれば、当面の目指すべきゴールは、貴乃花親方と白鵬の和解である。確かに貴乃花の行動には理解できないところもあるかも知れない。しかし相撲を愛する者として、両者共に高い次元に立てば、和解はできると思う。
 蛇足だが、私のいうことが見当違いなら、そもそも大相撲は芸能の世界だという認識に立ってみればどうだろう。その上で、悪いところがあれば、叩けば良い。例えば、八百長問題(無気力相撲)が依然としてくすぶっている。それを究明しないのは、権力を有するメディアが究明させないように動いているのではないかとも思ってしまう。ならばせめて、そんな泥の中でも花を咲かそうと、相撲道に精進する力士がいれば、みんながそれを「相撲道」として讃え、誰よりも賞賛してほしい。私は単なる数字や人気で物事の価値を評価するなと言いたい。大相撲は想像を絶する大変な世界だと思う。ゆえに数字などでは、技術の真の価値などわからない。私は日本の評論の世界は甘すぎると思っている。もしかすると、近代の日本人は目先の勝負に勝てば、それで良いのだろうか。私は絶対にそのような立場、視点を拒否したい。
 もう一つだけ、どうしても書きたいことがある。それは現在の大相撲界が外国人力士を受け入れ、横綱にしたのだから、後戻りするのはとても困難だということ。ならば、その前提を了解し、みんなが仲良くできるよう、より良い着地点を見出して欲しい。また貴乃花親方が自分の信じる相撲道と殉じることがないように、その声を聞いてあげて欲しい。みんな家族ではないか。私は、そんなゴールを目指すこと、そして「思い」が品格よりも大切なことのように思う。

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