平昌冬季パラリンピックを観て

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平昌冬季パラリンピックを観て

2018年03月18日
テーマ:スポーツについて

 【スポーツの素晴らしさ】
 周知のように平昌冬季オリンピックは日本人選手の活躍めざましく、私も多くのアイドル的アスリート達に感動をいただいた。断っておくが、アイドル的とは語弊があるかもしれない。ただ、選手達にスポーツ的感動以上の癒し的な感覚をいただいたのは私だけだろうか。

 現在、冬季オリンピックに続いて平昌冬季パラリンピックが開催されている。さすがに仕事が山積する中、オリンピックほど観ないが、それでも報道を観る。

 そんな中、感じることは、スポーツの素晴らしさである。テレビでもスポーツの素晴らしさを喧伝していたが、スポーツの素晴らしさとなんだろうか?

 厳しい状況の中での素早い判断と決断。また、非日常的な技術。それが見るものに直接的に伝わってくる。そのような要因がスポーツによる感動の源だろう。さらにメディアは、選手達にストリー性を持たせ、アイコン性を強化する。以上は私の直感である。正解があるかどうかは別として、増田流に少し考えて見たい。

【スポーツと武道の違いについて〜遊びの究極】
 まず、スポーツについて考えるにあたり、私の周りでよく聞くことに、スポーツは「遊びから派生し、楽しむこと…」。一方、「武道とは遊びではなく、命懸けの真剣勝負の道である…」などの大まかな定義がある。先述した言は、定義というには大雑把すぎるが、私の周りでは、スポーツに対する批判に近い評価があるのは事実である。そして、空手や武道に対する特別扱いがある。あえて、それを言うのは、私は、スポーツと武道を分けて考える向きに、若干の違和感を感じてきたからである。ここで少し、スポーツと武道の違いについての持論を展開したい。

 繰り返すが、私は先述したようなスポーツの定義には違和感を感じる。また、先述の武道の定義も同様である。なぜなら、そのような武道の定義の背景には、兵法があるとして、ほとんどの武道、武術が、兵法とは異なるものとしか思えないからだ。また、たとえスポーツが「遊び」から始まったとしても、その発展系は、「単なる遊び」とは思えない。その意味は、スポーツにおける高度の集中力の発揮される状態と武道における、それとは同一のものだと想像するからである。ただ問題は、インプットされる情報に質的に異なる部分が少々ある。そこが重要だと言われる向きに関して議論するには、もう少し丁寧に論を展開しなければならないだろう。あえて乱暴に言えば、「武道とは命懸けを想定する」と言うが、命懸け、そして兵法とは、理性を超えた領域を想定しなければならない。つまり、命懸けを扱うなら、理性を超えた領域を扱わなければならない、ということである。これ以上はここでは書けない。

 そこまで言わなくても、武術の原初は、扱いを誤ると死傷に至る武器と格闘の訓練であり、それゆえ不断の心構えと精進を必要とする。その部分が武道の武道たる所以だと言えば、楽しさ優先のスポーツのあり方は、武道とは異なると言っても間違いではないとは思う。ゆえに私も武道とスポーツの間に一定の距離をおいている。しかし、スポーツと武道が同一ではないとしても、双方に架橋し、長所、短所を補完し合えば、それぞれがより良いものに発展すると、私は考えている。

 少しくどくなるが、人間が武道や武術の訓練に精力を傾けられるのは、その行為の必要性のみならず、その行為の先に「遊びの要素」と「遊びの究極」があるからだと思う。ここで言う「遊びの究極」とは、単なる気持ちが良い、あるいは、楽しいというようなことを超越した感覚である。それは、禅でいうところの「三昧の境地」に至ることだ。また「三昧の境地」とは、「無心の境地」と言い換えても良い。補足すれば、「遊びの要素」とは、多様な情報を一つにまとめ上げるために必要な要素なのではないかと想像する。そして遊びという行為の究極に、無心の境地があるように思うのだ。おそらく、予測不能の真剣勝負の中、自己を喪失しないために、そのような状態が必要なのであろう。同時に、無心の境地とは自己の全力を発揮する準備が整った状態でもあると思う。さらに言えば、その境地に至った後、初めて真の感謝が実感されてくると、私は直感している。そのようなことを、若い頃、スポーツとも武道とも言えぬ極真空手に人生を賭し、私は感じ取った。

 私は若い頃、私に対する理不尽とも思える評価に対し、どうしたら自己を喪失せず、自己のパフォーマンスのベストを現出させられるか、苦悩していた。その苦悩の解を求めて、一日8〜10時間の稽古を目標とした。そんな中、肉体を鍛えることの先に「無心の境地」が見えてきた。要するに、心と技と体を自由自在に活用するには、無心の境地に至る扉の鍵が必要だと感じたのだ。そして、その鍵を手中にすることが、トップアスリートの必要条件だと悟ったのである。

 私は極真空手のチャンピオンになるため、自己にハードなフィジカルトレーニングのみならず、徹底的なメンタルトレーニングを自己に課した。その中には宗教や信仰について掘り下げることも含まれる。また私は、いくつかのメンタルの状態のポイントを掲げ、絶えずその状態が維持されるように、絶えずキーワードとともに意識し続けた。そのキーワードをいくつかあげれば、「あきらめない」「積極」「集中」「楽しむ」ということである。もちろん、それ以外にキーワードがある。さらにそのキーワードの先には「感謝」があった。

 増田流の「あきらめない」とは、自分の頭の中で結果を出さないということである。最後の最後まで結果はわからないと、考えることと言い換えても良い。また「積極」とは、「必ず良くなっていくと信じること」である。そして「集中」とは、今この瞬間に全力を尽くすことである。また「楽しむ」とは、すべてのものを生かすことである。また生かしている実感をつかむことである。楽しむということは、「自分自身が生かされているという実感を得ること」と言っても良いだろう。さらに言えば、その実感を得るためのアイテム、呪文は、すべての物事に感謝することであろう。これまで、メンタル面について多くを語らなかったのは、精神的なことをいう人間が嫌いだったからである。なぜ嫌いか。今はまだ語らない。ただ、若いアスリートの情熱とひたむきさを目の当たりにして、その時の自分の姿を思い出した。

【家族の深い感動と愛】
 かなり脱線した話を戻したい。今回の平昌冬季パラリンピックにおいて、最も感動したのは、メダリスト達の家族に深い感動と愛があることを知ったことだった。私は、テレビで選手の家族らが、その勝利に涙を流している姿に、もらい泣きした。蛇足かもしれないが、私には障害者の家族はいない。当然、障害者スポーツを行う人、そして障害者のことも理解不能であることを承知している。しかし、これまでの人生で、障害者と障害者を持つ家族との出会いはあった。そして私はいつも、その人たちを通じ、障害者を持つ家族の気持ちを想像してしていた…。こんなことを言うと僭越ではあるが、「障害者を家族に持つことは、とても大変なことだと想像する」しかし「不幸なことではない」と信じたい。むしろ、可能性としては、「より深い愛を感じ取れる機縁をいただいているのではないか」と思っている。大変僭越な物言いであるが。

【自由かつ不自由】
 もう一つパラリンピックを観て思うことがある。おそらく、障害者スポーツを行う人たちの始まりは、自分の体を自由かつ不自由だと自覚したところから始まるのではないかと言うことだ。言い換えれば、身体の不自由を受け入れたときから、自由への道が始まるということである。

 私はかつて究極のパフォーマンスを追求していた。しかし、現実は厳しく困難であった。例えば、怪我などによる障害や思い通りにならない自己の心身に足掻いていた。そんな中、自分の心身とは、自由かつ不自由なものだと、私は考えていた。

【究極的には健常者も障害者も同じではないか】
 今私は、究極的には健常者も障害者も同じではないかと、直感している。否、健常者の方が自分の身体の自由に囚われ、不自由を受け入れられず、最期、不自由な身体と向き合い、人生を終えていくような感さえする。一方の障害者アスリート達は、不自由を受け入れ、むしろ自由の本質を掴んでいるように思うのだ。もちろん、健常者も身障者も、いずれ身体的に機能不全に陥り、人生を終えるに違いない。しかし、身障者アスリートの生き方には、本当の自由を掴もうとする、積極的精神、そして自己の人生を楽しもうとする情熱に溢れている。私は、その障害者のあり方、姿を肯定するだけで、社会的な意義があると思うのだ。断っておくが、私は障害者も不自由を克服し、スポーツを行えと言いたいのではない。ただ、障害者のみならず現健常者の身体も不自由になっていくのが通常である。しかしながら、考えてみてほしい。全ての人間は赤ん坊の頃、不自由だったではないか。それを家族が、また社会が守り、育ててくれたのではないかということを言いたいのだ。そして、その感謝を社会の一員一人ひとりが、今一度、深く自覚することで、より良い社会に向かうと思うのである。言い換えれば、人間の可能性の開拓を社会のみんなで保証していくことが、より良い社会を築く方向性だと思っている。そのようなことを、パラリンピックは感じさせてくれた。スポーツも同様である。みんながスポーツを通じ、無心の境地を目指し、自己の心身を解放させ、かつ感謝を感じていく。私はパラリンピックに関しては無知である。しかし、スポーツの思想が発展することに対し、武道の掲げる思想の貧困を、私は感じずにはいられない。

【社会に有益でなければ】
 最後に、障害者アスリート達の家族の愛情は、一般のそれよりも深く、そして強いのではないかと、想像する。ゆえにその涙に、もらい泣きするのは、私一人ではあるまい。
 
 パラリンピックが私に再認識させてくれたことは、人間の可能性の豊かさのみならず、家族や社会の有難さである。また、余計なことだが、パラリンピックは、商業主義を揶揄され、臭いものに蓋をされている感のする、オリンピックを浄化し、スポーツを公共的文化財として高める効果がある。

 遊びの究極を「三昧の境地」「無心の境地」と先述した。また武道を掲げる人たちが、本当に命懸けの真剣勝負を想定するならば、「無心の境地」に至らねば、究極的に役には立つまい。もちろん、その技や術を知らない相手には優位性を保つものぐらいにはなるかもしれない。しかし、それだけでは十分ではないだろう。

 繰り返すが、オリンピックアスリートが目指すべく「三昧の境地」そして「自由」とは、武道や武術を行う者が目指すべく、究極的境地、自由と同じではないかと考えている。

 さらに言えば、武道や武術は、近世においては兵法と切り離され、本質は武芸である。それは、スポーツと親和性の高いものである。否、同質と言っても過言ではないと考えている。ただし、武術や武道には、護身術としての側面があり、その部分は、スポーツと異なるところかもしれない。しかし、スポーツも国家有事における、国民の心身の訓練が含意されていると思う。見方を変え、拡大解釈していけば、スポーツと武道には、共通項とともに兵法にも繋がっていく。そこまで大きく俯瞰し、かつ掘り下げるるなら、論文を書かなければならないが。

 とにかく、武道と言おうがスポーツと言おうが、社会に有益でなければ、発展しないだろう。ゆえに私は、武道をスポーツと融合し、武道をより公共性の高いものにしていくことは、一案に違いないと思っている。

デジタル空手武道通信 編集後記

【心と心のつながり】

 私は、一昨年に急逝した元ラグビー日本代表監督の平尾誠二氏と、かなり前になるが、神戸にある洒落たBARでお酒を飲んだことがある。私と平尾氏とは同じ学年である。その時は、共通の知人がセッテイングしてくれた。その時の話題が「スポーツは遊びか」だったように記憶する。たまたまだったが、私は遊びとは、人間にとって有意義な行為であり、それを深化させていくことは、崇高な行為であると、持論を展開した。それに平尾氏は合わせてくれた。その席をセッテイングしてくれた知人は、理論家の平尾氏とバンカラな空手家の話が合うか心配していたようだ。その知人も同学年である。平尾氏は私よりも少し背が高く、スタイルも良かった。一言で言えば、かっこ良かった。別れ際、自分の携帯番号を教えてくれ、いつでも電話してくださいと言ってくれた。とても社交的な人でもあった。当時の私は、空手界の揉め事の影響で毎日が憂鬱であった。
 私は平尾氏が亡くなったとニュースで知った時、とても残念だと思うと同時に、人の命の儚さを感じずにはいられなかった。ここ数年、同年代の知人が数人、夭逝した。そんな中、私が思うことは、「必ず人は死ぬ」。ゆえに「一番大切なものは何か?」「一番大切なものをもっと大切にしよう」ということである。
 私の一番大切なものとは何か?「健康」「家族」「…」?私が大切にしたいことは、抽象的だが「心と心のつながり」である。今現在、身体に無理を強いて製作している、デジタル空手道教本もそのためのツールである。今、非力な私が頼りにするのは空手であり、それを使って、我が心と他者の心が深くつながることを目指したい。今はまだ、私の発信する電波が弱く、人に届かなくても、いつか必ず受信できるようにしたいと考えている。
 私は平尾氏との出会いを進展させず、惜しいことをしたと思っているが、彼の心から発信された電波を受信したつもりだ。その平尾氏が夭折し、いつか平尾氏について書きたいと思っていた。その平尾氏とのことを思い出しつつ、今回のコラムを書いた。

 

2018-12-4:一部文言修正

▼合宿講習の下見にて

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