機前を捉える

 2018年04月22日

【機前を捉える】

 ヒッティングという打撃技を用いた試合法とは、テニスや卓球、あるいはサッカーのように針の穴を通すようなショット、パスを駆使することを目指す。言い換えれば、打撃技を駆使する「機」を重視する試合法である。では、そのようなことを具現化、体得するには何が必要か? 
 
 技の精度(正確性)は言わずもがな、究極的には「相手と一体化し、相手の攻撃の「機前」を捉える」境地に至ることである。今、私が書いていることをすぐに理解出来る者なら、ヒッティングを行えば、その感覚を体得することができる。

 しかし、私の言うことがすぐに理解できないものは、組手の上達は困難である。しかし、すぐに理解できなくとも、私が時間をかけて指導をすれば、必ず上達すると思う。
 
 ただし、週に1〜2時間程度の練習では感覚が養成されない。また、私が3時間22分をかけて行った100人組手、また、そこに至るまでの数千時間に及ぶ組手練習と同じことを行ったからといって、そこに至るとも思わない。では、増田の感覚を誰も理解できないということか?と言われるかもしれないが、決してそうではない。

 前述したような境地に至るには、厳しい修練のみならず、それを行わずにはいられない「機縁」が必要なのだ。つまり、まずは「より精度の高い技」「より完璧な防御」を心から欲すること。さらに、ヒッティングによって、「相手と一体化し、相手の攻撃の「機前」を捉えること」を内なるなる声として聞くのでなければ、生涯をかけてもそこには至らないであろう。換言すれば、意識の強さと方向が明確でなければ、自己の心身を変革することはできないという事だ。

 もし、私と同じような機縁を得たものなら、私の空手道理念と判断基準が理解できるはずである。そのような者は皆無かもしれない。それならそれで良い。私の空手道は私自身のためにあるのだから…。

 ただ、もし私が命を賭けた極真空手を、同じように極めたいと思う者がいるなら、少しだけ立ち止まり、ともに稽古をしても良いと考えている。誤解を恐れずに言えば、私の稽古と皆の稽古は、次元が全く異なる。それを合わせると言うことは、私の感覚を後世に残したいという人情とも欲望とも言えるような思いが私の中にあるからであろう。現在、私は空手道の修練体系を作り直そうと考えている。それは、大きく中身、フレームが変わるわけではない。ただ、その理念と判断基準を明確にし、組手の技術が段々と高いレベルに向かって行くようにプログラムを書き換えるのだ。そうすれば、人間の心身自体は大きくは変わらないが、脳および神経回路が大きく変化する。

【私の考えるスポーツ、そして武道の理想】

 最後に、ヒッティングという打撃技を用いた試合法においては、やがて熟練すれば、素晴らしいサッカーのゴールのような術が生まれてくるはずだ。その時、そのゴールのような術が、まるで相手の協力、演出によるもののように思えてくるはずである。その境地に至って、初めて天地自然の理法の何たるかがわかり、自己が自他の繋がりのなかで生かされていることを知るのだ。

 繰り返すが、私がTS方式の組手法、ヒッティングに託す命題は「機前を捉えること」「相手と関係性の中における瞬間を制すること」と言っても良い。

 その瞬間の中に真理がある。それは事象と事象の間、認識と認識の間にある真の意味を捉えるということだ。残念ながら、今後AIにその役割を奪われてしまうかもしれない。だが、AIにその役割を任せるということは、人間の行動が個人のものではなくなり、人間の行動が集団の意識や組織の意識に引きずられたものになっていくのではないかと危惧している(今後、AIの関する研究の進展を見てから再考したい)。
 
 そこで私は、ヒッティングによって、言葉によらない、事象と事象、行動と行動の間の真理を捉える力を養成したいのだ。私はヒッティングの普及をフリースタイルプロジェクトの改訂版として進めている。

 いつものように、誇大妄想は私の性癖である。これを読んだ人は、私を笑っているに違いない。それでも、ここで私の考えるスポーツ、そして武道の理想を述べておく。

 国家は人間を守る役割も果たすが、ブラックボックスを作り、権力を形成する。また、国家と国家の対峙は、権力や暴力を正当化する。ゆえに、スポーツの役割は、決してブラックボックスを作らないこと。また、何らかの利害によって形成された固定観念を基盤にした「言葉による自己の優位や正義の主張し合い」ではなく、「純粋な自他の行為としての試合(スポーツや組手)」が、各々の能力を向上させ、掛け替えのないパートナーだと認識していく手段となることである。

 現在、スポーツのみならず武道団体もエンターテインメントや教育を隠れ蓑とし、権力化が進み、同時に腐敗も進んでいる部分があるのではないかと、私は疑っている。また、自他の交流と理解、尊敬がスポーツの目的であることを忘れているかのようにも見える(もちろん全てではない)。私は国際武道人育英会の事業として、再度、”ヒッティング”スポーツのプロジェクトを構想してみたい。なぜなら、スポーツのみならず武道とは、個々人の意識をより高次化するための手段である、と思うからだ。

 ただし、人の選定と資金の確保の目処が経つまでは、ことを起こさない。なぜなら、これ以上家族を不幸にするのを避けたいのと、私の体がもたないからである。同時に時代がそれを求めているような気もする。まさしく機前を捉えるような感覚である。しかし歳をとると勇気がなくなるようだ…。

追記
 風邪で体調不良の中、ほぼ1日、デジタル空手武道通信の更新の作業をおこなった。私がなぜスポーツにこだわるかといえば、私は幼少の頃から反権力だからだ。スポーツとは、本来、反権力でなければならない。しかし、現実はそうではなくなってきている。こだからこそ、新しい武道スポーツを提言したいのだ。

 私は幼少の頃、権力のブラックボックスに怯え、そして傷つけられた。それは死にたいぐらいだった(自業自得だと人は言うかもしれないが、そんな私だからこそ、良い社会変革の提言ができると思っている。そのためにはもっと力が必要である)。今朝、久しぶりに嫌な夢を見た。もう忘れたいのだが…。

 もう一つ、土曜日のTS方式(ヒッティング)の講習会に忙しい中、集まってくれた研究科の荻野氏、大下氏、宮村氏、スネイド氏、巧君に、ありがとうと言いたい。

 

備考

2020-7月に武道に関する小論を書いた。そこではスポーツと武道を分けた。言い換えれば、武道スポーツを創出することを休止し、武道創出に集中することにしたということだ。まずは、新しい武道を創出し、その先はその時に考えればよいと思っている。とにかく、今は武道を創ることで精一杯だ。スポーツとなると、多くの人と交わらなければならない。そんなことをしたくない。もう残された時間がないから…。勉強をして哲学を極めたい。年をとった。

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