サッカーと極真空手〜その2 

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サッカーと極真空手(その2) 〜機先を制する技と技能

2018年06月25日

 【日本対セネガル戦】

日本対セネガル戦を見た。
「素晴らしい」
こんなサッカーができるとは思っていなかった。セネガル戦のようなサッカーができるなら、日本のサッカーもワールドクラスだ。にわかサッカーファンの私でも、日本チームの素晴らしさは理解できた。

  【“応じ(技)”の駆使がカウンターならびにパスワーク】

 昨日、書いたように、私の空手理論でいう“応じ(技)”の駆使がカウンター(サッカーでいうところの)戦術ならびにパスワークの連携からの攻撃に近い(パスワークの理想は、一瞬で相手の意識を崩すことだろう。たとえなので、完全に一致するわけ出はないが…)。
 例えを補足すれば、サッカーのカウンター(サッカーでいうところの)ならびにパスワークの共通点は、相手の攻撃を防御しつつ、相手の攻撃を見極めながら、技を出すことである(その意識があるかどうかが、私のいうところの応じと、それ以外とを分ける)。
 また、どちらも明確なゴールへのイメージ、そこへの連携が内在(意識)されていなければならない。そうではないパスやカウンターは、空手でいえば、消極的な防御のための防御であり、また、雑な攻撃のための攻撃である。

 【機先を制する技と技能】 

 換言すれば、私が考える「応じ」とは、絶えず、ゴールをイメージしていなければならないのだ。武道的に言い換えれば、「機先を制する」ことが重要である。これまで私は、日本は尚武の国(武道を奨励する国という意味、また武道を生んだ国)にも関わらず、多くの空手家のみならず、日本サッカーには、その意識がないのでは、と私は疑っていた。そもそも、武道理論が誤解されている(このことは別の機会に書きたい)。
 しかしながら、昨晩の日本チームのプレーには、正確で巧みな防御からの反撃(カウンター)、そしてパスワークがあった。何より、そのパスワークは見事だった。そこには明確なゴールへのイメージがあった。
 私がみるに、サッカーの攻撃戦術は、剣道でいうところの「仕掛け技」と「応じ技」に分けられる、と思った。例えると、サッカーにおける仕掛け技は、自チームが保持するボールをパスワークで連携し、ゴールに運ぶこと。応じ技は、相手チームが保持するボールを防御技から奪い、自チームの保持と転じ、それをパスワークで連携して仕掛けていくことである。そして、どちらも機を捉え、先をとり、技を決めること(ゴール)である。また、サッカーのパスワークは、技を決めるための準備、柔道でいうところの「作り」のように思えた。要するに、昨晩の日本チームのプレーには、見事な応じ(技)と作り、そして機先を制する技と技能があった(技と技能についての私の理論を知らない人には、いまひとつ意味不明かもしれないが)。
 

【速い「寄せ」の感覚】

 昨晩私は、ゴールエリア内での針の穴を通すような集中力(と技)が大事だと書いた。それを日本チームは見事に実践した。今一歩のシュートもあったが、そのシュートの多くは、雑な攻撃のための攻撃、出鱈目な攻撃ではなかった。将棋でいう、相手を詰ませるための、速い「寄せ」の感覚が見えた。「寄せ」とは、将棋でいう、相手に詰みを意識させるような攻め、との記憶があるが、間違っているかもしれない。私は、それを柔道の:「作り」の一種だと考えている。
 
 また、私の空手理論における「応じ」とは、必ず一本(ゴール)をイメージすること。さらにチャンス(機)あり、と見たら、速い「寄せ(準備の攻め)」が原則だと教える。

 その感覚が現行の極真空手にはない、と嘆いているのだ。判定勝利があるものなど、武道ではない。あるとしたら、それは悪しき権威主義的な武道である。ほとんどの武道の本当の姿は権威主義のお化けが、言葉の着物をまとっているようだ。そして、それを良しとする愛好者がいる。武道の本質がそうであってはならない。また、そんなものは本当の武術、武道の修練ではないと言っても良い、と私は考えている。

  さて、昨晩の日本チームの最もよかったことは、引き分けを意識していなかったことである。私は西野監督と選手に聞いて見たい。

 引き分けを意識しないで、勝ちに行った(状況によっては引き分けもありだが)。もちろん、勝ちに行く、と言ってもベテラン選手は勝つことの厳しさを理解しているので、闇雲に攻めるのではなく、攻守のバランスの重要性を知っていたと思う。ほとんど武道的である。

 繰り返すが、昨晩の日本チームには、サッカー素人の私が見ても、私の考える武道的な状況判断、そして応じ、さらに「寄せ」の素晴らしさがあった。将棋で言えば、想像力溢れる、寄せの連続、そして見事な詰み手を見せてくれたと思う。

【日本チームは美しかった】

 さらに言えば、日本チームはとてもフェアだった。換言すれば、日本チームは美しかった。柴崎、長谷部、長友は、私の好きな選手たちだ。もちろん、大迫、酒井、香川、昌子、岡崎、乾、本田、大迫、吉田、原口、川島、みんな素晴らしい。多くの人、特に相手国(セネガル)のサポーター達もそう感じたに違いない。本当に日本を誇らしく思った。昨晩の戦いは、将来を夢見る、若きサッカー選手に夢を与えたと思う。しかし、くれぐれも油断しないでほしい。まず、ファールをしないこと。全員が攻撃のみならず、防御のイメージを共有すること。とにかく、イメージ力、そして予測力が大事である。そして自分たちのサッカーに対する想像力を信じてほしい。

【最後に】

 最後に、ゴールエリア内での針の穴を通すような集中力と精度を、今後も維持して欲しい。もう一つ、サッカーは格闘技ではなく、ボールゲームだが、命懸けでプレーしてほしい。なぜなら、サッカーのゴールは極真空手で言えば、一本、技ありのようなものだからだ。ゆえにプレーには、どんな相手にも、またどんな状況でも気後れしない、闘争心が重要なのだ。
 ただし、感情的になりすぎてはいけない。感情的な高ぶりは闘争心ではない。それを闘争心だと考えてはいけない。そのような状態でのプレー(行動)は、試合巧者や実力者には、手の内を見透かされ、すぐに逆を取られるに違いない。つまり相手が見えなくなる。本物の闘争心は冷静かつ熱い。言い換えれば、最期まで希望と情熱に満ちているものなのだ。これは自分にも言い聞かせたい。
 また、感情的になり過ぎれば、想像力が発揮できなくなるだろう。サッカー日本代表の命懸けの仕事を、多くの人が見守っている。それを喜びとしてほしい。そして楽しんでほしい。極真空手に人生をかけた、増田 章がいうことだ。偉そうだが勘弁してほしい。
 私は、サッカー日本代表の戦いを、単なるスポーツではなく、武道の考究の一環として、私は見ている。そして、サッカー日本代表の次を期待したい。

【蛇足だが…】

 蛇足だが、家族と日本サッカーの話をしていたら、中田選手の話が出た。彼は今、サッカーをしていないという。そしてカフェを作ったと言う。知的で才能溢れる中田選手のことだから、考えあってのことだと思う。悪いことではない。しかし、なぜ…。家族は、「日本サッカーに絶望したのでは?」と言う。もしそうなら、気持ちはわかる気がしないでもないが…。私も空手界に絶望しかかっているから。

 その時の私は、家族に対し、すかさず応じた。「バカモン」「俺なら、お金があれば、サッカーチーム、そしてサッカーアカデミーを作るぞ」。そして「日本の組織やサッカー選手の考えに惑わされず、増田の武道理論を選手にふきこむ」「まずはフィジカルだ」次に「応じ(技)からの極め(ゴール)の感覚を徹底的に仕込む」と、いつものように、まくし立てた。

 夢の中でも良いから、そんな仕事をしてみたい、と思っている。

【追記】

昨日のブログは、極真空手をサッカーに例えた部分に書き間違いがあったので、加筆修正しました。道場生、極真空手に興味ある人は再読して見てください。

2018-6-27:加筆修正
2018-7-1:一部加筆修正
2018-7-2:一部加筆修正

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