サッカー競技に例えて見ると

 サッカー競技に例えて見ると

 2018年07月29日/空手とスポーツ

 

    以下の文章は、私が執筆中の技能論(仮題)の中の一節である。部分的に読むと意味がわからないかもしれない。
私は独自の技術と技能という概念用語を用い、武道の本質に挑戦しているつもりだ。私は、執筆中の原稿をなんとしてでも世に出したいと考えている。そして空手のみならず、武道の認識を根本から変えたいと考えている。
 

【サッカー競技に例えて見ると】
 

 ここで唐突と思われるかもしれないが、技術と技能についてサッカー競技に例えて見る。技術と技能の関係は、他のスポーツ競技に例えると分かりやすい。

 例えば、サッカー競技において精度の高いシュートやパスを駆使には5W1Hではないが「どのようなタイミング(機会/いつ)」「どのスペースに」「どの選手に」「どんなパスを」「なぜそのパスを出すか」、そして「どのようにパスを出すか」が明確になっていなければならないと思う。その意味は、その情況・局面における最適解(最善手)が、チーム、そしてチームと一体化した個(プレーヤー)のシステムのなかで認知されていることが、チーム全体のシステム(組織)のおける最適解(最善手)を導く条件となるのである。繰り返すようだが、そのような認知と判断の結果としてのパスワークやシュートなどの結果として優れたゴールを生み出すのである。また、サッカーにおいては、個(プレーヤー)の集まりとしての集団(チーム)に「認知と判断と行為のシステム」を有することが、強いチームに必要な基盤だと思う。同時に個(プレーヤー)においても、チーム全体の目的とチームの基盤としてのシステムを認識し、多様な情況・局面において最適解(最善手)を選び出すような「認知と判断と行為」の能力の高さが必要だと思う。言い換えれば、集団(チーム)のシステムと個(プレーヤー)のシステムが協働することが、チーム競技の理想形だ、と私は思うのである。
 
 ゆえに、能力の高いチームを創るためには、能力の高い個を創ることが先立つと考えている。なぜなら、そのような能力の高い個が結集することが集団(集団)の能力を高めると私は考えているからだ。ただし、私が考える能力が高い個とは、「優れた技術」を有するのみならず、本論でいう高い技能を有する者である。私は、高い技能を有する「個」が集団の目的と理念を了解し、かつ集団自体にも私のいう高い技能、すなわち「たえず変化する相手との相互依存的な情況、戦いの流れの中で「優れた技」や戦術をより善く運用する能力」が備わっていれば、より強い集団が形成されると思っている。しかし、私のいう技能の役割を理解できないならば、強い集団はおろか、強い個の育成も困難かもしれない。繰り返すが、サッカー競技では、絶えず情況が変化する。ゆえにパスを始め全ての行為には次を予測し、かつ次の局面を生み出すような想像力が包含されていなければならない。しかしながら、多面的かつ時間的な予測と情況判断を瞬時に行い、それに最適な行為が重要だと認識するからこそ、それが可能となる。

 そのことを理解するためのケース・スタディを見た。サッカーのロシアW杯の日本対ベルギー戦である。実は本論の執筆中、ロシアW杯が開催されていた。ロシアW杯における日本代表の戦いは眼を見張った。私も執筆の合間に日本代表を応援した。日本代表はベスト8には入らなかったが、優勝するぐらいの実力を有すると観られたベルギーチームと素晴らしい戦いをした。同時に非常に惜しいゲーム(試し合い)だったと思う。武道家でサッカーの門外漢である私の見立てを許していただけば、最後の逆転ゴール(ベルギー)は、単純に見れば、攻撃を意識するあまりに頭部のガード(防御)を忘れ、後ろ回し蹴りの一撃を喰らい、倒されたという感じである。つまり、私の空手道では、攻撃が終われば、すぐにニュートラル(自然体)に戻れと教える。つまり、攻撃をしたなら、瞬時に防御と攻撃のどちらにも切り替えられるように態勢を戻すことが基本なのである。おそらく、そんなことはサッカー選手にもわかっているというかもしれない。ならば、先述した「安定を求める心の中に不安定の因があり、不安定を了解し、それに乗り続ける中に安定の因がある」という面ではどうだろう。

 おそらく、日本代表は攻撃の心を維持し、あと1点取ることを目指すことを目指したのであろう。しかし、その判断が不安定の中の安定につながったのであろうか。もし、攻撃の心が安定につながるのであればそれで良い。しかし防御の心が安定に繋がることもある。反対にそれらの心が不安定に繋がることもあるのである。つまり、何らかの心がある種の囚われ、すなわち不安定を生み出したのではないだろうか。私はその時の選手の心情を聞いて見たい。その上で、分析しなければならないと思っている。もちろん、単純な技術と体力の問題かもしれない。しかし私は、どんな時も、情況・局面は変化するとの認識を持ち続けること、そしてそれに対応する技術と技能の養成に努めることが武道でもスポーツでも重要だと感じている。

 さらに言えば、私はサッカーをテレビで見る程度だが、サッカー解説を聞いていると、昨今はサッカーにも科学の力が応用されているようだ。例えば、試合におけるパスの数や成功数やシュート数などのデータを集め分析し、チームの戦い方の傾向や対策を講じるようになってきているようだ。その解析方法に関しては知らないが、そのような科学を用いた、オペレーションリサーチを駆使した、戦略および戦術の研究が急速に進むに違いない。それが未来の高度なサッカーだと私は考えている。そのように述べると、世の中のスポーツファンやオールドファンは「サッカーは数学ではない」などと怒り出すかもしれない。気持ちはわかるし、理論などと、気取って書いている私も数学に関しては無知だ。しかし、数々の自分よりも技術が上で、体力も優れる者と多くの好敵手と戦い、それに負けないように戦術と戦略の観点で戦いを考えてきた者からすれば、技術体力のみならず、オペレーションズ・リサーチの理論が示すような観点が必要だと思っている。そして技能が必要なのだと考えている。
 
 そのような認識があれば、技術のみならず、個の経験と心身を基盤に、スポーツ競技を通じ、高度な認知と判断する能力、すなわち「心・身」が養成され、優れた「心・身」を有する個(人間)の育成に役立つ。さらに、優れた個の育成が社会に有益となると思うのである。稚拙な例えだが理解していただけただろうか。

 私は、サッカー同様のことが空手をはじめとする武道に必要だと考えている。なぜなら、武道の目的は人間教育だからである。私は、多くの武道家が武道、武術は命懸けとの理念が必要だと説きながら、実はそこまでの行為ではないということを認識せずに、あたかも神秘主義による思考停止に陥ったように見える。私は、武道に限らず、スポーツ競技も認識を正しく持ち、スポーツ競技も人間教育だとの理念を念頭に置くならば、命を賭す行為に勝るとも劣らない修練手段となると考えている。なぜなら、スポーツ競技や武道の試し合いのみならず、人生も「たえず変化する相手との相互依存的な情況、戦いの流れの中で「優れた技」(技術)を獲得するために努力し、それを用いる手段(戦術)をより善く運用すること」の結果だと思うからである。ゆえに人生にも「技能」が重要なのだ。

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