イメージは無限 6月10日少年部指導より

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イメージは無限   6月10日少年部指導より 

 先日、初級教本用に少年部の稽古の内容の一部を撮影しました(YouTubeにアップしました)。その映像は拓心武道メソッドの組手技の稽古法を一例です。現在、新型コロナウィルス感染拡大抑止の対応中なので「マスク着用」です。また相手と接触を伴う稽古を禁止の中での稽古内容です。

 マスク着用で生徒に触れずに行う稽古(手袋をつけて少しは接触します)は大変です。しかしながら相手と接触しない稽古法もやり方次第では、相手と行う稽古以上の効果をもたらす、と私は考えています。また本教本では、最後に仮想組手を行っています。生徒たちの多くは初級者で未熟ですが、この稽古を継続し、かつ対人稽古を行うならば、より繊細な対応力を必要とするTS方式の組手(空手ヒッティイング)の上達が早まると考えています。

【拓心武道メソッドは形を整えることが重要】

 また拓心武道メソッドは形を整えることが重要です。形を整えながら、身体の使い方の本質に至り、より高次の技を生み出して行くのです。そういう意味では、増田も未熟で完璧ではありません。形を意識することで、自己の未熟を実感しています。ただ、拓心武道メソッドにより、自分のどこに欠陥があるのか、また、なぜそうなるのかを理解することができます。もちろん仮説ですが…。ゆえに拓心武道メソッドの修練体系を片時も忘れず、自己の形を見直し、自己更新をしたいと考えています。

【イメージは無限である】 

 本映像の最後に私は重要なことを伝えています。しかし、多くの空手愛好者に誤解や反発を与える言動かもしれません。子供達に私が伝えたかったことは「イメージは無限である」ということです。無限であるイメージを相手にするからこそ妥協なき研鑽となるのです。そして自由自在、言い換えれば無限の対応力の養成につながるのです。しかし、過激に「下手な相手とやり取りをするくらいならイメージを相手にする方が良い」と私は付け加えています。そこが問題です。相手と対峙し、真摯にやりとりをする経験は重要です。しかしながら、そうではない意識の低い相手との対峙ややりとり(応答)は、時に悪い癖を自己にもたらす、と私は考えています。それを思わず子供達に伝えてしまいました。いつも反省するのですが、なかなか直らない私の悪い癖です。よく言えば、私は誰にでも真っ正直に向き合ってしまう。もちろん、いつもは難しいことは言わないようにしてはいます。しかし、時々、特別の技(意味)を出してしまうのです。おそらく、子供たちは、それが特別の技(意味)だとは認識していないでしょうが。

【負ける経験】 

 多くの格闘競技やスポーツ競技は、ルールの中で勝つことを第一に考え、かつ、その最短距離を行こうとします。そのようなあり方は、ルールが確立され、理念(目的)が明確なスポーツや競技である場合、かつ指導者が競技に勝つことの先にある原理を理解している場合、競技を通じ原理を体得し、その後の人生に競技を役立たせることができるかもしれません。

 しかしながら極真空手を始め多くの空手競技はルールや理念が明確ではありません。そのような競技によって勝ち負けを競うことは、一部例外はあるでしょうが、人生の役には立たないかもしれません。それでも競技、勝ち負けを競うことが有益だ、と私が思うのは、どんなに理不尽な勝負、経験でも、負けることを体験することは人間を慎重にするからです。また理不尽な負けは人を深甚にすることもあるでしょう。

 ただ「負けた」ということには明確な理由(価値基準)が必要だと思います。なぜなら、その自覚、受取りによって人は成長すると考えるからです。一方、「どちらが好きか嫌いか」「どちらが美人か」というような曖昧な価値基準による勝ち負けは勝者も敗者も正しく成長させないでしょう。ところが、社会には理不尽な(意味不明な)勝ち負けがあります。ゆえに多くの人が勝った理由のみならず、負けた理由すら正しく理解することができません。ゆえに必要以上に勝ち負けに拘ってしまうのでしょうか。また勝ち負けはゴールではないと勝負以外の価値を見出していくかもしれません。

  しかし「人の考え方は様々だ」として、それらを大雑把に片付けてしまうことに耐え難さを私は感じています。特に私が最も忌み嫌うのは、負ける原理のみならず勝つ原理も理解していない者が勝負を語ることです。断っておきますが、決して勝者のみが語る資格があるというのではありません。そこのところを誤解しないでください。むしろ原理を理解せずに「勝った」と喜んでいる人間が一番タチが悪いとも思っています。

 ここで私が言いたいことは、正しい評価、評論ができる土壌が必要だ、とでも言えば理解されるかもしれません。例えば、空手のみならず野球を考えてください。私は野球の原理を理解していない者が、その勝ち負けを語ることが一番我慢できない、と言いたいのです。ただし野球の場合、全てが武道よりも明解、かつエンターティンメントですから鷹揚に見たら良いかもしれません(評論家やメディアが無知なのはダメでしょう)。しかし空手や武道はそうでは無いはずです。非常に不明瞭な部分があり、かつエンターティンメントではありません。それがわかっていない…(むしろエンターティンメントスポーツ愛好者よりも眼が開いてないかもしれない)。

 やや強引に話をまとめると、それでも私はスポーツや競技で負ける経験をすることは必要なことだと考えています。そして様々な考えで、勝負に向き合っていくのも、また良しと思っています(人間はそんな程度だからです)。ただ私がこれだけは伝えて行きたいことは、勝ち負けを設定することで、その先に技と技を運用する原理を発見し、それを理解していくことです。そのような原理を想定し、勝ち負けを体験するならば、勝負はまた違った姿に見えるはずです。もしかすると「勝ち負けは無い」「無いところから勝ちや負けが生まれている」と感じるかもしれません。そこまで行けば、全ての形が整ってくるはずです。私は全てにおいて形が整わないのは原理を追い求める過程にあるからなのか、それとも原理が理解できず出鱈目だからだと思います。前者は良いのですが後者はよくありません。もう一つよくないことは、原理を理解していないのに、無理やり形を整えることは偽物の形であり原理から生じる形ではありません。そのような形は偽物です。私はそう直感します。

【「形が整う」とは】

 私が考える「形が整う」とは、無駄が一つもない境地です。そのような境地とは、形ではなく心が中心となった動きを体得した境地であり、その心は身体と離れた心ではなく、身体と一体でありながら独立し、また有心でありながら無心です。

 残念ながら、極真空手の競技法、それを見ている空手家は正しい形の意味を理解していません。かくいう私も形も未熟、心も生かし切れていないと考えるからこそ精進を続けます。

 最後に繰り返しますが、イメージによって自己を修正していく。その方が相手との関係を前提に自分を変えるよりも有効な場合があると思っています。ゆえに、私は絶えず正しいイメージを探し求めています。そして形(型)を意識しながら自分の型を発見し、それを活かしていく。それが自分の型を創るということであり、不動の自己の本質だと思います。

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