[第43号&第44号:2020-12-25]

本号の内容について

  • 本号は12月と1月号の合併号です。次回は2月号となります。なお、デジタル空手武道教本のページは、随時更新を行なっていますので、稽古内容の不明点があれば、教本を閲覧してください。
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2020年12月のイベントの報告

2021年1月のイベント予定

  • 1月 5日:事務始め
  • 1月15日:第2回 昇段講習会
  • 1月31日:第2回 月例試合


第1回  道場対抗組手交流会写真集

 

昇段講習会(全3回)の第1回を終了

▼12月20日 昇段講習会の写真(残念ながらマスク着用)黒帯目指して頑張っています!

 

ワンポイントレッスン〜重要

 基本技術で重要なのは「立ち方」と「足さばき(運足法/歩法)」この2つの稽古が足りないと感じています。ほとんどの黒帯の伝統技のみならず組手技が未熟です。その原因は、私の指導法が未熟だったことだと考えています。

 「稽古の基本は認識の更新」と「認識力の向上」です。先ず以って、稽古の心構えが黒帯にできていません。並べられた、技を大体理解し、大体できる様になれば、昇級、昇段を認めてきた修練システム、そして教え方の未熟さを痛感しています。

 私の考えは、「基本技術の始まりは「立ち方」と「運足法(歩法)」を正しく認識することだ」ということです。しかし、伝統的な空手の稽古法は突き蹴りを作ることをはじめに行います。突き蹴りの稽古は習う者の満足感はあるでしょうが大事なことが欠落しています。昔は移動稽古を多く行いました。最近は移動稽古の量が少ないのです。また、修練システムの中で伝統技と組手技の乖離を改正しきれていません。以上はすべて私の責任です。黒帯に伝えきれていなかったのです。そして黒帯の低い認識に委ねていました。

 今後はその部分のみならず全てを見直します。中身が変わるわけではありませんが、修練の順番や教え方、チェックの仕方が異なるということです。

 まずは、立ち方と足運びに視点を移してください。将来の上達を担保します(基本が十分でなければ、レベルの高い組手もできません)。

 また、立ち方と運足法(歩法)その稽古をしていない者は、後々の上達が遅くなります。例外があるのは個体の資質によるものだと思います。

 まずは伝統技、組手技の立ち方を見直してください。また運足法の理解をしてください。

参考ページ

 

面授/組手指導/組手イメージ

 

特別寄稿/技能から見た武道とは〜武道とは何か? 


【技術の習得】

 

  技術とは、なんらかの目的を達成・実現するために用いられる手段・方法である。ゆえに空手武道における技術とは、相手を手足によって攻撃したり、相手の攻撃を防御したりする手段・方法と言っても良い。
 空手武道における、突きや蹴りといった技術は、日常生活における身体操作とは乖離しているので、習得に労力を必要とする。また、技術を表現する基盤が身体だということにより、その技術に個体の身体差の影響が出てくるのは否めない。だが、その個体差を努力によって埋めて行くのが稽古である。その努力の詳細は、単に身体をいじめるというようなものであってはならない。大事なことは身体を通じて(全身で)考えることである。考えるのは、「自己の心身について」と「技術について」である。その部分が自己の確立に役立つ、と私は考えている。最終的に技術の習得の稽古とは、自己の身体の可能性を開拓し、その可能性を開花させる方法論を導き出すものである。同時に、その方法論は、自己の確立に組み込まれて行く。そうなって初めて、技術習得が人間形成に役立つということとなる。ただ、そのことをどれだけの人が理解しているだろうか。あえて書くが、空手技の習得による優越感を自信と勘違いしたりするのも一時的には効用があるかもしれない。だが、本当はそんなことが大事なのではない。できなかったことが、自分の努力によりできるようになることを通じ、意識(目付け)の向上が認識できるようになることなのである。空手の基本稽古によって得られる効用とは、それ以上でも以下でもない、と私は考えている。
 だがここで、さらに意識の向上を推し進めるのが本当の武道の稽古であると言いたい。私は武道の稽古においては、技術の習得と併行して、その技術をいかに使うかという稽古をしなければならない、と考えている。言い換えれば、技能養成が武道修練の要諦だということだ。補足を加えれば、技能とは一人一人の心身の変革であり、高次化のことだと言っても良い。
 増田式の空手武道修練法と言っても良い、拓心武道の眼目は、「技術をいかに使うか」ということを考え、工夫する修練を意味する。言い換えれば、「技術をより善く使う技能」を追求する修練が拓心武道の核心である。
 少し脱線すれば、武道修練について私がその様に考えるに至ったのは、技術をより善く使うための技能の追求によって、基本技術との対峙、掘り下げが必要になって行くという経験的認識があるからだ。逆に言えば、そこまで至らなければ基本とは何かが真の意味でわかっていないと言っても良いだろう。長年にわたる、才能ある多くの空手家との対峙、そして極真空手そのものに対する対峙が私の身体による認知と認識を変化させた。繰り返す様だが、私にとっての空手武道修練とは、必然的に「基本技術の掘り下げ及び研鑽」と「より善い技能の追求」とが一体化した行為となった。
 

【技能という能力】

 さて、ここで技能とは何かを掘り下げてみたい。まず私は、「技能とは技術を活用する能力」と定義したい。また本論において、「技術とは、なんらかの目的を達成・実現するために用いられる手段・方法」だと先述した。
 私は、勝利への意識が高いプロスポーツにおいては、技術の使用と目的達成(成果)との間のズレを無くすための技術練習を徹底しなければならないと考えている。例えば「ゴールを決めるためにシュートをしたが、ゴールポストを外れて、ゴールに至らなかった」という場合、遊びでスポーツを行う人は深く考えないかもしれない。だが、プロはそうであってはいけない。うまくいかなかった原因を徹底的に追求し、改善しなければならないと思う。また、この様なケースを「技術」と「技能」という概念を用い考えると理解しやすいだろう。
 私の考え方は、シュート(ゴール)の失敗が、パスの受け取り(予測の部分)に問題があるなら技能が稚拙ということになる。また、ゴールキーパーの真正面にシュートするということも技能の問題であろう。一方、十分なシュートの機会が与えられているにも関わらず、シートを外したとなれば、技術の問題である。私はその様に考える。そして、その問題を解消、改善しなければならない。ただし、パスの受け取りからゴールにつなげる技能(スキル)の発揮には、パスを受け取る技術の精緻さがなければならないということも考えなければならない。
 補足すれば、なんらかの技術の発揮とその成果(結果)には、技術の精緻さのみならず技能の問題があるということだ。また、技能とは技術と連携して、目的達成の可能性をより高める能力と言える。


【武道における技能】

 次に武道における技能、武技(技術)の用い方としての技能について考えてみたい。敵対する相手の腹部や腕部、また脚部などを攻撃し、相手に致命傷を与えず、相手の戦意や戦闘力を一時的に奪うことが技術使用の目的だったとしよう。だが、間違った目標を攻撃し、相手を死に至らしめたとしたらどうだろうか。そのような技術は害悪となる可能性が高い。おそらく、この例えはわかりにくいだろう。また、相手から自分の身を護らなければならない状況にあって、そんなことを言っていられないと思う人もいるだろう。だが、私の言いたいことはそうではない。よしんば、相手の実力行使(暴力)から身を護る手段としての武術であっても、私の考える武道の目指すところは、より善い武技の用い方だということだ。また、武技の最善活用が武道の目指す究極だということでもある。
 断っておくが、武技の使用は、時に相手を粉砕しなければならない時もあるだろう。また、高いレベルの武技とは相手を確実に殺傷、粉砕できるものだ。だが、究極的には、より良い武技(技術)の用い方の追求を通じ、武技(技術)の使用による目的達成を超越するような新たな価値と方法の創出を可能とする意識(目付け、観点)を養成するあり方が武道というに値するものだ、と私は考えている。
 言い換えれば、より高いレベルの技能の養成を目指す修練が、個々人の身体のみならず心に働きかけ、より高次の哲学を生み出すことが武道の本義なのである。その次元に立って、初めて武術が武道という境地に立ったと言える。
 私の主宰する空手道場では、単なる技術の習得ではなく、その技術をより善く、かつ、どのように使うかということを考える。言い換えれば、技能の修練によって、自己を活かす道を体得することを目指す。それが拓心武道である。

 ここまで書いてきて、技術とは、なんらかの目的を達成するための「道具」のようなものだと言い換えられる、と私は考えている。だとしたら、その道具の使用目的がなんであるかを明確にすることが重要だと思っている。その意味は、「道具」を使う前に、道具を使う者の心のあり様が重要だ、ということだ。

 例えば、道具が人から人へと伝達されたとしても、それをより善く使うことに直結しないことがある。それは道具(技術)の本質が「なんらかの行為に役立つ」ということでしかないゆえのことだ。だが、そこに「より善く」という価値観が意識されると、方向性と成果は全く異なってくる。つまり、同じ道具(技術)を使うのでも、その目的、イメージが異なれば、道具の使い方のみならず、道具によって導き出される成果は異なってくるということだ。要するに、道具(技術)をどのように使うか、という理念によって、技術によって達成・実現、そして表現されるものが異なるということだ。つまり「どのように技術を使うか」という意思を具現化する能力が技能である。言い換えれば、「技術を持つ者の理念、意思を自在に表現、実現する能力が技能」ということになる。さらに言えば、その技能に導かれた哲学が私のいう武道哲学である。それ以外は自己の心身から導き出したものではないがゆえに本当の哲学ではない。それは誰からかの借り物であり、虚飾に満ちた、権威付けの手段に過ぎない。そんなものは武道哲学というには値しない。私は武道人一人一人が哲学(認識手段)を持って欲しいと思っている。ただし、その哲学が他者と同調するためのものではなく、個々人の良心に根ざした良知良能に導かれたものであって欲しい。さらに、そのような武道哲学が人類の平和に役立つことが、私が武道人として願うところだ。

【技能から見た武道とは】

 ここで武道という概念について考えてみたい。私は、多くの空手人が掲げる武道というラベルと武道論に違和感を覚えている。なぜなら、武道という概念には、日本思想の底流にある、「道の思想」が内在すると考えるからだ。私は、技、芸の世界の人間の思想と技が技、芸の次元から道の次元へと高次化されたものが武道だ、という立場に立っている。補足を加えるならば、そこには、あくなき技術の追求と同時に技能の追求、そして理念の追求がある。要するに、技術者としてのみならず技能者として、あくなき技能と理念の追求が、そこにあったがゆえに道の思想に至ったのである。言い換えれば、我が国における「道」の思想とは、より善く自他を活かすという技能、かつ理念の究極の境地を指し示しているのだ。ゆえに、その道の達人と称される者は、高い技能を有し、かつ「道の思想」を会得した者であるに違いない。
 残念ながら、我が空手の世界では、そのような技能を有し、「道」に到達した者をあまり見ない。皆無ではないと思うが、それは空手が普及という目的実現に急ぎ、その実現のために競技という手段を採用したことにある。だが、問題は競技にあるのではない。競技理念が曖昧で、その方法が稚拙だからである。そうなると、技術のみならず技能も曖昧で稚拙なものになることを予想できなかったのだろう。だが、それにも関わらず、競技に偏向したことが問題の本質だと思う。
 一方、競技を行わず、独りよがりの世界に没入して、自他を顧みない者も「道」には到達しないであろう。むしろ競技という手段を用いつつ高い理念と技能を追求することを忘れないならば、「道」に到達する可能性が拡がる、と私は考えている。
 断っておくが、人間の心身を用いる技能の追求は簡単なことではない。繰り返すが、技能の基盤は、先ず以って、たゆまぬ技術の研鑽、すなわち心身の道具化(技術化)が必要である。武道とは、技術の研鑽を基盤に道具(心身と技術)と自己(真己)との一体化を目指すことだ。そして、そのために全身全霊を傾け、高いレベルの技能の追求を目指す道なのである。それゆえ型が大切なのだ(空手の伝統型のことではない)。
 

【技能の追求とは〜一介の一武芸者であった者を変貌させる】

 もう一つ付け加えるならば、技能の追求とは、単なる競技における勝ち負けに一喜一憂するのではなく、稽古・修練を「理法との合致」を目指す行為と為すことである。そして自己の技(業)を理法と合致させるには、心構えとして、他者との対峙、かつ自己との対峙が必要となる。また心身という自然との対峙を基本としなければならない。その上で、自他一体の境地、そして天地自然の理法との一体化を目指すのだ。そこまでいけば、武芸(技能)の修練は修行となる。
 その様な認識に立つならば、武芸(技能)の修練が一介の一武芸者であった者を変貌させるのは必然である。言い換えれば、自己を存立させる社会における自己の確立に至ることのは必然なのである。逆に言えば、社会における自己の確立に至らない者は高いレベルの技能を追求しているとは言い難い。
 要するに「武道とは技術(武技)を継承、かつ、新たな技術(武技)を創出し、その技術(武技)のより善い用い方(活かし方)としての技能(能力)を追求する道」である。そのような「道」が人間形成の道となり、かつ自己の確立の手段となるのだ。
 

【「道」とは】

 最後に、私の門下生に明記しておく。「道」とは目指すべく究極の境地であり、かつ、そこに至るためのプロセスでもある。だが、そのプロセスには踏むべき理法があることを忘れないで欲しい。また、その理法が天地自然の理法に合致するものであることはいうまでもない。
 さらに自身を振り返り、銘記しておきたいことがある。それは、もし目指すものが武道というなら、先ず以って、たゆまぬ技の研鑽が必要だということ。もちろん技の研鑽には心身鍛錬を怠らないことも含まれる。もう一つは、門下生とともに、技術を用い技能を追求する武道(武道理念と修練体系)を確立することである。私にはそれができると信じている。
 繰り返すようだが、私の夢と希望は、道に到達する道筋を指し示す、武道と呼ぶにふさわしい空手武道を追求することである。たとえ現時点において、その考えが誰にも理解されず、誰もついてこなくても、何十年先、何百年の時を経ても朽ちることない思想とその体系を残すことを目指したい。

2020年12月19日
2021年を迎えるに先立ち、沈思論考。

       

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第43号 編集後記

「自己を活かし、他者を活かす」

 「今年は1年過ぎるのが早かった」。私はそう感じている。聞くところによると小学生までが同様に感じているらしい。それがコロナウィルスの影響であることはいうまでもない。  

   なんとかコロナウィルスに罹患せずに仕事を終えることができた。感謝だ。だが、これからどうなるかはわからない。今、1日1日、感謝しながら生きていると言ったら大げさに聞こえるだろうか。  

  今回のコロナパンデミックに対して、私が直感したことは「原点に立ち戻る」ということだ、と以前にも書いた。その思いを念頭に日々やれることを行なっている。当初、その行動は周りを困惑させるかもしれないと思った。だが、私の原点回帰の核心は、「自分に責任を持つ」同時に「自分の門下生、家族に責任を持つ」ということである。そのことを達成するため、私は自分の空手を最高のものとすることに邁進している。  

  しかしながら、価値観は多様であるから、その方法は様々だと思う。私にとって最高のもの。誤解を恐れずに言えば、それは空手の修練を行うものに欲しい何かを提供することではない。空手を修練する者に「道」を感じさせることにある。  

 ここでいう「道」とは、自分を磨き、最高の自己へ到達させる理法と言ってもよい。私は自らが道を追い求めつつ、それを皆に伝えたい。 そのようなあり方は、目先の利益を得たいと思う人間には理解されないかもしれない。ゆえに、その思想・価値観を取り入れようと思わないだろう。もちろん、人が欲しがるような「もの」をつくり、それを提供することは悪いことではない。

 しかし、私は我々はすでに人生において大事な「もの」を持っている。外に大事な「もの」を求めるな、と言いたい。だが、大事なものは目には見えない。私は、なるべく「もの」を持たないようにしたい(難しいことだが)。そのように言った後で矛盾すると思われるかもしれないが、私は今、「ものつくり」をしている。ただし、その目的は、「より善いもの」を想像する喜び、かつ「より善いもの」をつくる過程において感性が活性化される喜びを得ること。さらに「より善いもの」が現実の形になった時の喜びが至福の感覚だと思うからである。決して「もの」を得ることが目的ではない。言い換えれば、「ものつくり」によって感性が活性化し、自己が高まる感覚が至福の喜びなのだろう。私が「目に見えない大事なもの」と先述したのは、一人ひとりの身体に宿る感性だ。だが、その感性は自らの意志で引き出し、かつ磨き上げなければ高まらない。つまり、私の達成したいことは、一人ひとりの感性を高めることに役立つ武道を創りあげることである。

 最後に、私が作り上げているものは、拓心武道という感性を磨く修練方法と武道哲学である。それを一言で言えば、「全てを活かすこと」だ。

 「自己を活かし、他者を活かす」。それが出来たとき、道を得たと言っても良いだろう。

 

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