[第51号:2021-8-16

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本号の内容について

  • 空手競技オリンピック初参加記念コラム 「サムライ柔道対オリンピック柔道」
  • 第8回 月例試合の全試合映像 試合結果一覧表
  • 第8回 月例試合の全試合映像 
  • デジタル空手武道教本のページは、随時更新を行なっていますので、稽古内容の不明点があれば、教本を閲覧してください。
  • 修練項目の伝統技、組手技のページが更新されています。空き時間に活用してください。
  • 増田道場の自習シートを更新しました(2021年度版)
  • 応用組手型のページを更新しました(詳細は以下から)
  • IBMA空手武道チャンネルに新しい動画がアップされています。是非、ご覧ください(チャンネル登録をしていただければ最新情報が届きます)。

 

 

 

お知らせ

◎デジタル空手武道教本サイトの閲覧にはPWの入力が必要です(一部PWが不要のページもあります)。 IBMA極真会館増田道場の会員には、閲覧用のPWを伝えてあります。もし、忘れた場合は事務局までメールにてお問い合わせください。 ◎ご注意ください!!

  • 9月中旬にデジタル空手武道教本のPWが変更になります。新しいPWはメールにてお知らせします。お気をつけください。
  • 次号(第51号)の公開は、8月初旬の予定です。
  • 7月の審査から学科試験が実施されます。学科試験は、インターネットを使って回答できます。設問は大体、3〜5問ですが、上級者ほど、学科の成績を重視します。

第8回 月例試合の報告

中学部の試合

全試合映像

巻頭コラム

 

                 

 

 

 

 

サムライ柔道とオリンピック柔道の戦い

 ◎本コラムは「スポーツとは何か(仮題)」という小論文の一部を抜粋、空手愛好者レベルでも理解できるように書き直したものである。論文の方は、オリンピック空手競技の問題点や極真空手の問題点、スポーツの本質、武術、武道、スポーツなど、多くのテーマについて書いている。まだ未完成なので考究を続けたい。

【オリンピックにふさわしいスポーツ(競技)】

 私はオリンピックというイベントには、その理念に照らして、相応しいものがあると思っている。もし、出鱈目に競技数を増やしたならば、単なるスペクタクル(見せ物)としてのスポーツイベントとなり、高い理念を掲げたオリンピックの価値は低下すると考えるからだ。また実務的な運営も困難となるであろう。

 私は空手競技がオリンピック競技となった今回の東京大会を、「オリンピックにふさわしいスポーツとは」という観点で観ていた。その命題の解を導き出せたように思う。その解を日本武道からオリンピック競技となった柔道を例に述べてみたい。

 繰り返すが、柔道を例としてあげるのは、柔道が競技ルールに様々な課題を見つけ、それをクリヤーしつてきたと思うからだ。また、オリンピック競技として加わって以来、一度は除外されたにもかかわらず復活し、かつ存続し続けるからだ。そして、その裏に「オリンピックにふさわしいスポーツ(競技)」として進化した背景があると考えるからである。

 ここで柔道の概要を簡単に書いておきたい。柔道とは明治時代、嘉納治五郎が数種の古流柔術を元に、修練法を含む技術を体系化したものである。そして「武道」という概念は、さまざまな解釈があり、柔道はその中の1種である。私は、その武道の1種である柔道がヨーロッパに誕生したスポーツと連携したのは必然性があったからだと思っている。その必然性の要素と性質とは、嘉納治五郎の創始した柔道の修練方法や技に、日本武術の奥儀、卓越性とまではいかないが、ヨーロッパ人の好む合理性が示されていたからではないかと思っている。また、柔道の修練方法や技の理解しやすさのみならず、創始者、嘉納治五郎の人格、哲学がヨーロッパのスポーツの高級貴族達の心を掴んだからに違いない。もちろん、嘉納治五郎の卓越した資金調達力や実務能力、また、門下生の尽力など、柔道普及発展のプロセスは簡単には語れない。

【ヨーロッパ人の好む合理性】

 さて、柔道の試合における、相手を投げることで「技あり」や「一本」をとるという、勝負判定の基本が、スポーツを生み出したヨーロッパ人には、理解しやすいものだったに違いない。もちろん、柔道に含まれる関節技や独自の絞技などは、格闘技としての実効性と柔道に対する驚きと脅威として眼に写ったことが想像できる。それらが、先述した「ヨーロッパ人の好む合理性」と言い表したことの意味である。

 ともあれ、柔道の「技あり」や「一本」という判定法は、技術の効果をポイントで表すスポーツの勝負判定に置換しやすいものだ。また同じと言っても過言ではあい。そして柔道は、ボクシングのようなダメージを競うものではない。

 補足を加えれば、オリンピックの理念や意義からして、相手にダメージを与える競技は相応しくない。ならばボクシングはオリンピックに相応しくないスポーツとなるはずである。にもかかわらずボクシングがオリンピックのコンテンツとなっているのは、ボクシングがフェンシングや柔道と同様に、オリンピックにふさわしいスポーツとして競技方法を変化させたからである。また、私はそこに「ヨーロッパの貴族達の伝統的精神」をみる。

【ヨーロッパの貴族達の伝統的精神】

 少々脱線するが、「ヨーロッパの貴族達の伝統的精神」についてもう少し述べたい。19世紀の前後まで、ヨーロッパの高級貴族達の間では、決闘が盛んに行われていた。山田勝氏の著書、『決闘の社会文化史(北星堂)』の前書きに「決闘者は社会的にはエリートである。ヨーロッパの決闘はアメリカ西部劇に見られるようなアウトローたちの殺し合いでもなければ、日本の俠客たちの争いとは異質であることはいうまでない。西洋の決闘はエリートとしての名誉と自尊心に基づくものであり、きわめて自主的で個人的要素が濃い。決闘が法的に禁止されている時でさえ、貴族たちは盛んに決闘を行った」とある。

 さらにヨーロッパの貴族の精神風土にあると思われる名誉と自尊心、そして決闘における介添人(セコンド)やフェアプレイの精神に基づくルールの徹底があるようだ。先の介添え人(セコンド)とは、決闘者の名誉を守る弁護士的役割、また無意味な決闘を仲裁して回避する役割を担ったと書いてある。

 そのことから、私はヨーロッパで誕生したスポーツには、日本人が理解している「遊び=スポーツ」というような単純な理解とは異なる背景があるように思う。また、ヨーロッパ高級貴族の精神的土壌から芽生えた何かがある、と私は直感した。

 同時に、我が国のサムライの行動規範(武士道)にヨーロッパの高級貴族と同様に「名誉」と「自尊心」を重んじる感性があったことを思い出した。厳密にはヨーロッパの貴族階級と我が国の武士階級との感性には違いがあるだろう。だが、嘉納治五郎の柔道哲学には、ヨーロッパ高級貴族の哲学、倫理観のみならず、我が国の上級武士の行動規範、哲学に通底する普遍性があったのだと思う。そこことがヨーロッパの高級貴族に共感をもたらしたのだと思う。

 要するに、ヨーロッパ貴族の精神的伝統を反映するスポーツがボクシングであり、フェンシングなのだ。そしてオリンピックを構想したヨーロッパの高級貴族の伝統的精神、そして哲学の基盤があるスポーツゆえに近代的スポーツとは趣を異にするが、オリンピックスポーツの中で、重鎮として鎮座し続けているのではないかと思う。もちろん、組織的な問題で、オリンピックから場外される可能性はある。しかしながら、今回の柔道のように、オリンピックにふさわしいスポーツと競技団体として、変化(改革)を続けるに違いない。ここで大事なことは、ボクシング(アマチュア)もダメージ制を掲げず、ポイント制を掲げ、オリンピックにふさわしいスポーツに近づけたということである。また、フェンシング競技も防具などを用い、また得点はセンサーで判断するように変えことである。

【柔道の競技(試合)の基本的内容】

 柔道に話を戻せば、先述したように柔道の競技(試合)の基本的内容は「投げ技の効果」をポイント(技ありや一本)で判定するものである。それゆえ、欧米に誕生したスポーツ競技と親和性が高い。また、投げ技は投げ方などによっては致死的、ダメージを与えるものとなるが、打撃系とは異なり、見た目はスキルフル(技巧的)である。それゆえ、他のスポーツ競技の技巧の優劣を競い、それを判定し、それを楽しむというスポーツの基本的要素と親和性が高いのだ。

 だが、問題が皆無だったわけではない。その問題を挙げれば、「有効」「技あり」「一本」のポイントの判定(現在は有効はない)に審判によってばらつきがあった。また「引き分け」からの旗判定による最終的な勝負判定には非納得感が否めなかった。

【柔道競技は引き分けと旗判定を無くした】

 今回のオリンピックにおいて、様々な問題点の解消が見てとれた。具体的には、有効をなくし技ありと1本のみとし。同時にレスリング的な組技をわずかに残し、ほぼ反則とした。そのことによて、柔道独自の技術、技能を発揮しやすくした。このことは、他の格闘競技との差別化になる。また指導などは3回で失格負けとした。また寝技によるポイント(技あり、1本)の時間設定を短くした。これは試合の流れを滑らか、かつスピーディーにし、観客を飽きさせないようにした。また、投げ技のポイントは、肉眼で不明瞭ならば、映像による判定(VR)を採用した。さらに誤審を防ぐための「ジュリー制度」なども採用している。

 スポーツとしてより本質的な部分は、4分間の本戦の後、勝負を決することができなかった場合、ゴールデンスコアによる時間無制限の延長戦が設けられたことだ。このことは、曖昧な引き分けという判定をなくし、より明確に勝敗を決めることが重要だ、という考え方に至ったということだ。この部分が、権威者の裁定を受け入れ易い日本人的な感性にはすぐに理解できなかったと思われる部分である。

 もちろん、日本人以外の人たちにも「引き分け」という感覚はあるだろう。だが、もし内容が本当に「引き分け」なら。「両者優勝」でなければおかしい。または、「敗者なし」と判定しなければおかしい。されど…としなければならない(あえて言えば)。実は戦前までは「引き分け」による両者優勝というものが柔道にはあった。

 私には、幼い頃に読んだ柔道の本に全日本柔道選士権における、木村政彦対石川隆彦の決勝戦と両者優勝の記述が強く記憶に残っている。「こんな粋な計らい、公平な裁きが、昔の日本にはあったんだ(昭和24年)」という感銘としてだ。

 それゆえ、引き分けから無理に勝者を決する方式は、日本人の劣化だ、と私は考えていた。今回、柔道界にどのような思考的プロセスがあったのかのが、私の研究したいところである。それはさておき、今回のオリンピックにおいて、柔道が伝統的な「旗判定」や「引き分け」を無くしたと言っても良いだろう。

 

【「旗判定」や「引き分け」判定の問題点】 

 もう少し、「旗判定」や「引き分け」判定の問題点を述べてみたい。かつて柔道の勝負判定には「引き分け」からの「旗判定」という日本独自の勝負判定が残っていた。それが大きな問題であった、と私は考えている。

 なぜなら、オリンピック・スポーツには万人が納得する、技術的、かつ技能的勝利がなければならないからだ。そのようなことを前提とすれば、最終的に明確、かつ明瞭な「勝敗という概念」に導き、それを決する前の「引き分け」という概念にも、明確、かつ明瞭な内容や判定基準がなければならないのである。だが、かつての引き分けから旗判定による勝敗の判定には、審判の主観的な判定しか示されていない。私は様々な国家を背にして競技を行うオリンピック競技においては、明確な勝負判定と同時に勝利に至るプロセスが明確かつ、公正でなければならないのと思う。でなければ、名誉と自尊心を命よりも重んじるヨーロッパ貴族の末裔である西洋人のみならず、様々な国家の多様な国民が勝敗を真に理解、納得はできないに違いない。

 私は、柔道の変化、そして努力こそが日本人があらゆる面で目指さなければならない変化の仕方ではないかとも思っている。言い換えれば、柔道の良点や日本の伝統的文化を残しながらも、国際的な標準に合わせていくということである。一方、剣道の人達の「剣道はオリンピック競技に加わらなくても良い」「剣道は日本独自の文化であり、それを堅守する」というような考え方も悪いわけではない。むしろ日本独自の文化を堅守するというものがある方が良いとも思う。武道という看板を掲げるものは、そのような意志がなければならないとも思う。一方、嘉納治五郎師範が掲げた「武道」という概念とその他多くの「武道」というラベルには大きな乖離があると思っている。詳しくは述べるには機会を待ちたいが、柔道はその剣道がいうところの日本独自の文化への思いを無差別の全日本選手権に込めていると見る。部外者である私がいうのは甚だ僭越ではあるが、そこはある種の治外法権の場であるべきだ。丁寧に言えば聖域であるべきだ。そして、国際柔道、そしてオリンピック競技の柔道において、日本の独自性を世界に示すという意志を強固に持って欲しい。だが、そんな心配はいらないぐらい、柔道界は変化したように見えた。今、柔道ファンの私は、もう一度幼少の頃に戻り、畳に立ちたいと思っている。

 総括すれば、柔道の変化も、「オリンピックにふさわしいスポーツ」として、自らを変化させて適合させた例だと思う。さらに言えば、私はボクシングやフェンシング以上に、オリンピックスポーツに相応しいものを目指して変化し続けた、プロセスの好例だと考えている。

【サムライ柔道とオリンピック柔道の戦い】

 最後に、今回のオリンピックにおいては、若い個性豊かな選手立ちの活躍があったことは大変嬉しく、かつ頼もしいと思った。また、選手達の個性的なキャクターの力も相まって、柔道未経験者の人達にも、柔道の魅力、そしてスポーツとしての面白さが伝わったに違いない。

 さらに言えば、選手が礼法を徹底し、日本柔道の伝統を背負っているという自覚を持って畳の上に立っていたように見えた。例えるならば、サムライ柔道対オリンピック柔道の戦いであった。だが、それは相手を敵とする戦いではなかった。相手を仲間として尊重しつつ、自己の名誉と自尊心を賭けた命懸けの戦いであったと思う。

 その精神は、言語、民族、宗教、国家の壁を超えた、共感を与えたに違いない。一方、オリンピック初参加の空手競技は、努力をしたとは思うが、柔道のそれには及ばなかったと言わざるを得ない。

 今後、空手が武道精神を掲げ、それを世界に広め、残したいのであれば、柔道が参考になるのではないか、と私は考えている。今のままでは、西洋の空手(スポーツ)になってしまった感が否めない。しかも劣化しているかもしれないとも思う。断っておくが、私はWKFの批判者ではない。むしろ、極真空手を含め、極真空手を真似た空手人の努力不足を指摘したい立場である。願わくば、空手人が自らの未熟とその本質を認識した上で協力し、新しい空手を作り上げて欲しいと思っている。

 蛇足だが、新たなルール改定の可能性を柔道競技の解説者がオープンにしていたことを、さらに嬉しく思った。なぜなら、柔道の若いリーダー達の未来に向けての希望、そして改革に対する、オープン、かつ前向きな姿勢を感じたからである。通常、ルールが変わると、不安や混乱の色を隠せないのが通常だと思う。おそらく、柔道界においては、ルール改定の納得と実行のために必要な「柔道とは何か」という理念、哲学、テーマの共有、そして「日本柔道を後世に残す」という信念が強く芽生えているのだろう。

 

第8回月例試合  

 

 

極真会館増田道場修練項目概要図

  • 極真会館増田道場修練体系図の改訂版です。
  • 今後、デジタル空手武道教本は下記の修練項目概要図に合わせ、改訂、整理していきます。もうしばらくお待ちください。
  • 護身術に関しては、極真会館増田道場護身術を制定します。
  • 投げ技・倒し技の組手型は2022年以降に採用予定です(これまで一部の道場生のみ修練していました)。。

   

2021年8月のイベント予定

  1. 第9回月例試合:8月29日(日)→参加案内はこちらから
  2. 昇段講習会:8月22日(日)

重要なお知らせ

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第51号 編集後記

 8月の初めにワクチンの2回目の接種を終えた。今年は1年半ぶりに墓参りに帰省しようと思っていた。だが、コロナウィルスの感染拡大により断念した。ならば、盆休み中に月例試合の映像の編集や空手界への提言などの論文を書こうと思っていた。だが、 急な用事があり、なかなか考えが纏まらなかった。少しでも前進しようと、資料を読み込んだりしたが、集中できず、のたうち回っていた。また、毎日の膝の痛みに気分が左右され、本を読むにも目がかすみ、腰痛が不安でパソコンに向かう気にもならない。それでも、気力を振り絞り、勉強とトレーニングを続けた。

 現在、災害級の大雨が地方を襲っているようだ。毎年のような災害、そしてコロナパンデミック。私より遥かに大変な状況にある人のことを思うと、幸運に感謝せずにはいられない。

 私は、オリンピック開催には反対の立場であった。ゆえに批判をしようと思えば、いくらでもできる。 だが、オリンピックは長年の思索の検証のために見ておかなければと思っていた。

 空手競技がどのような評価を受けるか。私は、「オリンピックから空手は始まる」と、何年も前から言っていた。その意味は、WKFの空手競技がオリンピックへ参加した後、空手競技に何が足りないかが理解できるようになるということである。そしてオリンピックが終わり、私は思わぬ収穫があったと思っている。それは柔道競技が見事に変化を遂げたことである。

 さて、これから空手界がどのように変わるか?私は極真会館の人間だが、WKFの空手に批判的な立場ではない。もちろん問題点はある。しかし、それは極真会館や極真空手を真似している空手流派も同じである。

 空手の組手競技は何を目的に、どのような形を理想として、どのような価値を生み出していくか。私は、今一度、デザインをし直す時期に来ていると思う。

 だが、そのように考えているのは私一人かもしれない。だが、私には半世紀以上もかけて空手を考え、理想の空手を実験し続けてきた自負がある。「世の人は我を何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る」、坂本龍馬の言葉らしいが、私の心境と同じだ。

 おそらく、我が道場生の現在の能力では私の理想を表現するのに3〜5年はかかるに違いない。コロナパンデミックが終焉し、かつてのように合宿稽古ができれば…、とも思う。だが、直感的には、このぐらいのスピードしか出せないことが良いのかもしれないとも思っている。

 そう、コロナパンデミックだからこそ、新しい組手法を(ヒッティングプロジェクト)を始めたのだ。あとは、私の身体が持つかどうかである。だが、可能性を信じるしかない。また、私は、私にしか見えないものを信じる。

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