心と身体を強くする空手〜IBMA極真会館増田道場

第62号巻頭コラム:拓心武道論〜拓心武術の目指す能力開発

第62号巻頭コラム:拓心武道論〜拓心武術の目指す能力開発

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増田 章の著作(拓心武道)

       

拓心武道論〜拓心武術の目指す能力開発

【TS方式の組手法は野球選手ならばすぐに上達する?】

 実は、私には仮説がある。TS方式の組手法は野球選手ならばすぐに上達する、ということだ。なぜなら、野球選手は「相手の投げるボールを予測し、かつ、そのボールにより正確に反応する能力」が発達していると思う。それがボールをバットで打つ行為であり、グローブで受ける行為だろう。その能力、行為には、動体視力や反射神経の働きも含まれる。
 そして、野球選手は「より正確な反応(バッティングの場合)」、言い換えれば、ボールを打つために「素振り」「トスバッティング」「ティーバッティング」「フリーバッティング」「シートバッティング」などの練習を行う。また、ボールを投げ、受けるために「キャッチボール」を行う。
そのような練習により、野球選手は、ボールやバット、グローブという道具と自己の身体の動きを調整し協調させ、巧みに活用する能力が発達する。
 私は、野球のようなスポーツを行う際に必要な「相手の投げるボールを予測し、かつ、そのボールにより正確に反応する能力」があれば、拓心武術はすぐに上達すると考えている。もし、それが実現しないとしたら、それは正確な技術の原理と身体を動かす原理を理解していないところに問題がある。私は、真の上達とは原理の理解と体得にあると思っている。
 また、サッカーやバスケットボールの選手も野球選手同様の能力が開拓されているに違いない。なぜなら、サッカーにおいても「相手の投げるボールを予測し、かつ、そのボールにより正確に反応する能力」が発達する。また、ボールという道具と自己の身体を調整し協調させ活用する能力を基盤としていると思うからだ。だだ、もうひとつ重要な点は、サッカーやバスケットボールはデフェンスとオフェンスが空間を共有していることだ。ゆえに相手選手やボールの位置の変化に対する理解と予測、それによりよく反応する能力が必要である。この能力の有無がTS方式の組手法に生きる。
 それを裏付けることとして、先日の月例試合において、高校生の阿部大和君が組手に上達を見せた。相手は中学生の阿部君だったが、阿部君も組手が上手い。だが、勝敗を分けたのは、蹴り技の使い方に阿部大和君の方が長けていたのと相手との間合いの取り方が阿部大和君の方が長けていた。後で、指導員に聞くと阿部大和君は部活でバスケットボールをやっていて、練習(バスケットの)に相手の動きへの対応という要素が多くあるからではないかという。そう見る指導員は、子供の頃バスケットボールをやっていたらしい。経験があるからこその視点である。だが、それを聞いて、私は閃いた。「なるほど、バスケットボールもサッカーも相手の位置とそこから出されるであろうボールを予測し、それに対応しなければならない」「その能力は格闘技に必要な能力と同様のものだ」

 一方、その能力の重要性を理解できない者は、たとえボールゲームの経験があっても、意識が自己の動きのみに閉じこもっていて、相手の動きに対応できないのだと思う。本来は、剣道もレスリングもボクシングも自己の動きのみならず、相手の動きを予測できなければならない。他方、空手の場合、競技ルール、判定法の偏向により、その能力が等閑となる傾向がある。大人もそうだが、打撃技の攻防に対するイメージが良くない。それは、極真空手が植え付けたイメージの影響もあるだろう。その部分は丁寧に述べなければならないところである。近いうちに拓心武道論の続編でまとめたい。

 ここで断っておくが、私は野球やバスケットボールやサッカーが上手い訳ではない。私は元来、不器用だとの自覚がある。そんな私が空手においては少しは身体を使えるようになった。それは、不器用だと思われることが悔しかったからである。そのために、私は幼少の頃から、独自に身体操作の訓練を行っていた。そのような経験から得たものは、時間をかけ、かつ、身体を使う原理さえ理解すれば、大体のことは可能だという感覚である。ただし、練習に時間をかけることが可能かどうか、また原理を教える指導者に出会えるかが、一番の問題だということである。

 私の場合、野球やサッカー、バスケットボールを指導してくれる指導者には出会わなかった。だが、格闘技で私の可能性を評価、指導してくれる指導者に出会った。そのことで、自分の可能性を格闘技に集中することにした。それでも、私の幼少の頃、格闘技はマイナーだった。普通なら、モチベーションを保つのは困難だっただろう。恥ずかしいことだが、幼少の頃、私は日本の社会システムから排除されかかった。それゆえ格闘技によって(なんでも良かった)自分の可能性を証明しなければ、生きた心地がしなかった(大袈裟に思うだろうし、誰も理解できないだろうが、その時の恐怖と屈辱感が今も根底にある)。結果、そのことにより、格闘技へのモチベーションを保つことができていると言っても過言ではない。私は、そのような経験も含めて、さまざまな原理と構造を理解し、それに改良を加えれば、より多くの人の能力開発に役立つことができると考えている。だが、それには、既存の格闘技の価値観とそれを活かす構造を変えなければならないと思っている。
 話が脱線したが、私がここで言いたいのは、スポーツであれ、その構造と必要な技術を還元して理解すれば、誰でもそれなりに上手くなると思っていることだ。同様に空手もその構造と技術を還元して理解すれば、誰でも上手くなるということである。もちろん、他者と比較すれば、誰が一番というような視点になるが、私はそのようには見ていない。拓心武術の目的は、個々人の能力を最大限に開拓、活かすことが目的だからである。

 私はサッカーやバスケットボールが上手くなるには対人プレーにおける、相手の動きの予測と対応能力が重要だと思っている。もちろん、シュートやパスの正確さは言うまでもない。要するに、デイフェンス、オフェンス共に相手の動きに対する予測能力が備わっていないと、良いプレーはできないということだ。私は、そのような能力がある者ならば、すぐに拓心武術に上達すると思っている。もちろん、スポーツのみならず物事が上達するには、その事を考えることが好きでしょうがない、という気持ちが必要だろう。だが、私がここで私が述べたいことは、好きなことの能力を高めるには、能力の内容を理解することが大事だということである。

 一方、野球はサッカーやバスケットボールのように戦う空間を共有していない。しかしながら、投手が投げる球を予測し、それに対応するためには、実に多くの情報を投手から読みとっているに違いない。そして、打者はその情報を分析し、ある程度の予測の網を張って、バットで対応しているに違いない。そのような感覚と能力を有する打者のみが長年に渡り高打率を誇るに違いない。同様のことをサッカーやバスケットボールの選手も行っていると私は考えている。

【究極のプレー】

 その点をもう少し詳しく述べたい。私は、多くの球技選手には「相手の動きやボールの位置変化に対する予測や反射の能力」が形成されているに違いない、と思っている。そのことに加え、優れた選手には、状況・局面におけるさまざまな情報を察知し、その情報から次の展開を読み取る能力があると思う。言い換えれば、変化する相手の形(部分的かつ全体的な)から相手の次の動きを予測する能力が形成されているということである。そのような能力を得るには、状況判断とその状況への対応を選択することを追求した成果だと言っても良いと思っている。そのような成果としての能力の実現には、無意識の領域に相手の技(プレー)の形からその意図(目的)や性質(強弱)を理解し、データベース化することが必要である。その上で、無意識の領域に蓄積したのデータベースから必要な情報を取り出し、身体の反射神経と繋ぎ合わせる能力が必要だと考えている。また、そのような能力は誰にでも形成することが可能だ、と私は考えている。ただし、そのような能力を活用しようとする意識がない。またそのような能力の存在さえ信じない人がほとんどだろう。おそらく、近い将来、AIの発達と活用により、私のいうことが誰でも理解できるようになるだろう。しかし、そのような時代が訪れ、しばらく経った後、人工的なA Iによって自己の選択や人生が導かれることの違和感が生まれるに違いない。私は、経験のなかで感じたものを、自らの努力で活かしながら生きることに人間の尊さがあると思う。極論すれば、失敗や敗北感のない人生より、むしろ失敗や敗北感をいかに活かしていくかに、人生の尊い価値があるということを…。現代人は失敗や敗北を恐れすぎである。ゆえに既得権益者達は、システム、すなわち修練の仕方や未成熟な試合方法を変えず、新しい仕組みや行動を起こさないのだと思う。かくいう私もずっと行動を起こせずにいた一人である。だが、流派を大きくしよう、などと考えないようになってから眼が開けた。もちろん、ことは言うほど簡単なことではない。現実は、目の前には困難が多々あり、決死の気持ちだが…。
 もう一つ述べれば、私の目から見れば、格闘技と球技もは同じ面があるというとである。だが、格闘技の場合、痛みやノックアウトなどに対する恐怖が伴い、そこに対する耐性や覚悟が必要だと見るかもしれない。もちろん、そのような面は格闘技の特性であり、球技と異なる格闘技の特殊な面である。だが、その格闘技の特殊性を宗教のように掲げるのは良くないと思っている。もし、そこにあまり大きな価値を置きすぎると、格闘技は精神論が最上の世界となってしまう。と言っても、私は精神論に偏向しすぎると良くないと言いたいだけで、究極的には精神が重要だと思っている。そういえば、普通の人は理解できないかもしれない。

 無論、私にも格闘技とサッカーとバスケットボールとの間には、コンタクトを認めるか認めないか、という大きな違いがあることはわかっている。だが、究極のプレー(動き)を追求するならば、格闘技はコンタクトが生じる以前の時空間を読み取りこと。一方、コンタクトのない球技は、コンタクトを恐れず、コンタクトが生じる寸前の時空間を我がものとすることである。さらに言えば、真の究極のプレーは、失敗や成功を超越した、自己への挑戦の精華なのである。そして、その精華を知る可能性は、一人ひとりの心身と人生に備わっている。

 
【既存機能の再利用】

 拙論で言うところの「相手の投げるボールを予測し、かつ、そのボールにより正確に反応する能力」を司る領域は6歳ぐらいまでに最も発達するらしい。ここでいう領域は、敏捷性、平衡性、巧緻性などを司る神経回路であり、運動神経と言われている領域である。しかし、それらの運動神経のみが、武術の技の習得に必要な要素だ、とは私は考えていない。もちろん、ある程度の運動神経は必要条件だ。だが、スポーツに必要な運動神経の有無を気にする必要はない。また、運動神経は幼少期以降は発達しないと言われているが、私はそのように考えない。極論すれば、私は老齢期でもその領域は発達すると考えている。
 ただし、私の考えは通常の医学的見地からする発達ではない。それは、これまでに形成された既存機能の再利用(既存能力の活性化・活用)と言っても良いだろう。その再利用(活用)という目標を核にして、自己の心身の機能を高め、かつ新たな機能を獲得していくのである。また、そのような既存能力の活性化・活用によって、発達しないとされている領域もデータに反して発達するかもしれないと私は考えている。
 さらに言えば、私は既存の身体機能を組手の技能に変換していくならば、生きている限り、上達は可能だということだ。それが私の仮説である。ただし私は脳科学者でも医学者でもないが…。
 もちろん、歩くこともできない、物を掴み動かすこともできないという状態では、武術の習得は困難だろう。だが、歩くこと、物を掴み、動かしたり、投げたり、動くものを掴んだりする機能があるならば、武術の上達は可能だと思う。ただし、機能の再利用のための技術の原理を理解することが必要条件であるが。

 

 【原理を追求する人】

 ここで断っておくが、私は原理にも深浅があると思っている。また、原理は頭で理解している次元と身体的に把握(体得)してる次元とがあると思っている。そして、目指すべきは、より深い原理の理解と頭と身体の両方の次元で原理を理解し把握することだ。もちろん、原理の理解を頭からアプローチするのでも良い。また、身体からアプローチするのも良いだろう。だが、最終的には、両方の次元で原理を掴み、かつ、さらに深い原理を追求していく。そのようなあり方を目指すことで、武術の次元が人を活かす次元へと昇華される。ゆえに武道人は、原理を追求する人でなければならない、というのが私の武道哲学である。ゆえに武道人とは単なる愛好者を意味しない。なぜなら、武道はスポーツと違い、その理念・哲学が明確でないからである。ゆえに、私は武道人という言葉に理念・哲学を込めたつもりである。
 かくいう私は、武術の先達が体得した技術の原理を理解はできるものもあるが、できないものもある、というのが偽りのない現状である。また、理解したと言っても、さらに深く掘り下げれば、さらに深いところに本当の原理があるかもしれない。ただ、浅いところ、みんなが理解、再利用できる範囲で原理と言っているに過ぎないと思っている。それでも原理を追求し、浅い原理でも良いから皆と共有し、それを高め、かつ深めていく。それが拓心武道のあり方である。つまり、私の一生では極まることはない。それでも道を求めていく。それが私の生き方、あり方なのである。

 【嬉しい成果】

 先日、私の仮説を裏付けるような嬉しい成果が月例試合であった。それは拓心武術は壮年でも上達するということである。その月例試合に参加した壮年部の一人に鈴木智氏がいるが、彼は幼少の頃、運動が得意な方ではない子供だったという。また、今でこそ山歩きを楽しみ、空手の有段者だが、幼少の頃はインドア派だったらしい。残念ながら、2試合中、1試合は勝ったものの2試合目は、優勢に試合を進めていたが途中負傷し、試合を中止した。それでも、鈴木智氏がTS方式の組手法に上達を見せていることは事実である。そのことから、ある程度の持久力とやる気があれば、たとえ幼少の頃に運動経験が乏しくてもTS方式の組手が上達すると思っている。また、別の見方をすれば、拓心武術の修練法は、老齢期に入っても既存の機能の再利用により、幼少期しか発達しないと思われている領域の機能を活性化する。その機能とは、敏捷性、平衡性、巧緻性などに相当する神経や筋の調節作用に関する能力であり、大まかにいいえば、運動神経と言われるものだ。だが、そのような能力を老齢者には獲得できない、また必要ないと考えるのは勿体無い。なぜなら、それらの能力は、たとえ幼少期ほど発達しなくとも、刺激すれば活性化する。そして老齢になっても楽しい身体活動を行うために必要だからだ

【「人を活かす技術・技能」の習得の手段となすために】

 私は、何歳になっても、先述した敏捷性、平衡性、巧緻性などを司る神経回路を活性化しておくことが身体活動の大きな柱だと思っている。また技術を習得しようと意識することで、身体のみならず脳を刺激し、心を活性化することも重要だと思う。さらに言えば、そのような効果を得る要素があるからこそ、社会体育としてスポーツが有用とされるのであろう。武術・武道も然りである。 
 私は、武術・武道もスポーツのように社会に有用なものとなる必要があると思っている。そのためには、武術・武道修練の原点や構造を明確に理解した上で、それに改良を加え活かしていく必要がある。もし、そのようなことが可能ならば、武術が単に「人を殺傷するための技術・技能」ではなく、「人を活かす技術・技能」の習得の手段となるに違いない。

 最後に、武術が「人を活かす技術・技能」の習得の手段となすためには、何が大切かということを述べておく。それは、磨き合い・高め合いとしての修練を行う仲間たちが、私のいう修練理念や目的を理解し、共有していることである。その理解がなければ、修練・稽古を楽しめない。また、修練仲間を自己の能力を向上させてくれるパートナーだと理解できない。ゆえに指導者は修練目的・理念を明確に理解し、それを伝える努力を怠ってはならない。また実践し続けなければなたない。だが、現実は打算的な価値観でもって、握手しているのが現状である。ゆえに私の考えが実現するには優れた指導者が必要だろう。または社会全体における価値観の転換が必要かもしれない。しかし、それを待つのではなく、まずはわずかな人達とでも良いから、その理念を具現化するために行動していきたい。その僅かな人達と、理念を盲信するのではなく、具現化するために行動し考え続けていく。私は、そのような生き方が、新しい社会のあり方、価値観の一つだと思っている。

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