心と身体を強くする空手〜IBMA極真会館増田道場

顔面突きありの空手と私との出会い

顔面突きありの空手と私との出会い

  • 本コラムは、アメバブログ〜2020年07月12日/テーマ:武道、空手についてに掲載されています。

 

新しい組手法をスタートした。唐突に思われたり、流行を追っているのだと勘違いされると心外なので書いておこう。私は決断力のない男である。その証拠に、ほぼ極真空手の修行をしてきた40数年間も悩んできた。こんな空手で良いのかと。誤解は必至だろう。極真空手が嫌なわけではない。なぜ変えないかが理解できなかった。私は変える方法はあると思ってきた。しかし、多くの人が変えられない。否、変えたくないと思っているのかもしれない。また、何も考えていないのだろう。考える人は、極真空手(極真会館)を去った。また、隠れ〇〇として極真空手とは異なる稽古をしているのかもしれない。語弊があるが、私は、もっとオープン、かつ包括的な修練体系を作るべきだと考えている。なぜなら、多様な武術を研究した大山倍達先生が始めた、本来の極真空手とは、オープン、かつ包括的な武道だからだ。だが、現在の組手法を採用している限り、様々な問題点があるだろう。だからこそ、代表的な組手修練法を伝統的な極真スタイルの組手法と顔面ありのスタイル(新しい組手方式)の組手法の二つを可とするのだ。そうすれば、細かい相違点は、各人の創意工夫として包摂できる可能性が拡がる。

ストレートに言う。私は極真空手を変えたい。なぜなら、私は極真空手を最高の空手にしたいと思っているからだ。変える方法は難しくない。また極真空手の伝統を無きものとすることでもない。具体的には、伝統的な極真方式の組手と私の考案した防具を使ったヒッティング方式の二つの組手法を行うことだ。この二つの組手法は同じ稽古法の延長線上に併立できる。なぜなら、双方、直接打撃制と言う点、また、極真空手が取り入れたムエタイやキックボクシングの技をほとんど使える点が生かされているからだ。また、異なる点もあるが、そのことは伝統的な空手の技を新しいヒッティング方式では全て試せると言う利点となる。既存の極真空手の組手法には禁じ手が多々ある。そのことには利点もあるが、弊害もあった。だが、防具を使えば、空手の打撃技のほとんど全てを使うことが可能だ。ただし、技の判定法にエンターティンメントスポーツとしての面を重視しないというのがヒッティング方式の組手法の考え方だ。そのことに関しては、必要とあらば、詳しく説明するが、今はその時ではない。

補足を加えれば、伝統的な極真スタイルは攻撃技の威力とスタミナ、などを重視する組手法、そして競技とすれば良い。一方、防具を使ったヒッティング方式は、防御技と攻撃技の使い方(応じ)のスキルと感覚を重視する組手法、競技とすれば良い。また後者(ヒッティング)は女性や年配の人達にも安心して組手稽古をさせられるむ組手法となる(指導者として考えた場合)。難しく言えば、ヒッティング方式は「機」を重視し、それを捉える組手稽古である。

以上のように稽古の意義や目的を分けて考えれば良い。そのように考えれば、極真方式とヒッティング方式の二つは補完しあい、両方の組手法の意義を高め、かつレベルを上げるということがイメージできるはずだ。
さらに言えば、防御を考えるということは武道としてのレベルをあげる。また、攻撃法の技術をさらに高めることができる。だが、現時点において、私と多くの極真空手家との間に、かなりの武道観、意識の相違があるのはなぜだろう?私は極真空手が最高の空手になり、かつ、伝統の武道となり、さらに文化となる可能性を明確にイメージできるのに…。

 

【顔面突きありの空手と私との出会い】

振り返れば、顔面突きありの空手と私との出会いは、今に始まったことではない。私は極真空手を始めた40数年前から、すでに顔面突きありの空手の稽古を始めていた。それは極真空手の手ほどきを受けた先生が伝統空手の出身だったことに起因する。また、私が初めて習った空手が伝統派空手だったこともある。もう一つ重要なことは、私は、高校生の時に伝統派の全日本のトップクラスの先生と防具空手の他流試合を行なった(私は極真空手の代表)。私は、その他流試合に敗れた。その時から、私は空手には多種の流派があること。他流派にも素晴らしい空手家がいること、様々な技術があることを知った。同時に、もし再び手合わせをしたなら、負けないように、と研究と準備をした。ゆえに高校生の時以来、「顔面突きがあったらどのように戦うか」がの私の脳裏から離れなかった。同時に顔面攻撃の研究を常に忘れなかった。私の研究は、伝統空手に止まらず、ボクシングやキックボクシングなどに及んだ(私は10数年前にボククシングジムを経営したこともある)。

その間、私が顔面突きを道場生に教えなかったのは、極真空手を好む人達に誤解を与えないようにするためであった。そして、私は道場では顔面突き有りの空手を封印してきた。競技中心の稽古は、大衆の支持を得やすい。その競技がメジャーならなおさらである。みんなのベクトルを「チャンピオンを目指せ」とすれば、非常にわかりやすい。そんな中、私はその流れとは異なることを時々行っていた。なぜなら、10代の頃の伝統派の空手家との他流試合の経験と、オランダによる武者修行の中で、ヨーロッパの空手家の高い技術と強靭なフイジカルを体で感じたからである。

しかしながら、極真空手の試合競技のスタイルと異なる稽古をすれば、その競技を行うにはマイナス(邪魔になる)になった。実際、相手と近づいて戦う、流行の極真空手の戦い方と私の組手のイメージにギャップが生じ、非常に組手がやりにくいと感じることが多々あった。
そのような体験から得た意識は、私を絶えず苦しめた。具体的には、多くの極真空手が近い間合いで戦うようになって行ったことに対する違和感である。極真空手以外を知っている私には、安易に近づくことが負けにつながると強く感じていた。その違和感は、中学と高校で柔道とレスリングを少し経験した私ならではのものかもしれない。しかしながら、そのような戦術は打撃技の強みを生かすような技術や技能を養成しないだろう。また、接近戦でのどつき合いは、どうしても次の展開が、私には見えてきてしまう。

繰り返すが、打撃技の強みを活かすには、基本として撃間(うちま〜剣道でいう一足一頭の間合い)からの間合いの制し合いの感覚が必要である。また「機を捉える」という感覚と技能が必要だ、と私は考えている。ここで断っておくが、接近戦は有効な戦術を展開する可能性を含んでいる。接近戦は、組み技のみならず、組み技と打撃技を組み合わせた高度の技を生み出す可能性もあるだろう。

さらにいえば、私はレスリング、柔道など、接近戦を行う格闘技が好きである。ゆえに、私は接近戦を否定しないし、武術としても接近戦の研究を行い、かつ、その可能性を追求したい。だが、そのことと極真空手の組手法における接近戦の感覚は次元が異なる。現時点では、あまりにも安易な戦術と組手術が蔓延っているように見えることは否めない。

【親鸞や武蔵のように】

4、5年前から私の身体は、加齢と傷害でダメになってきた。そんな中、どうしても自分の研究してきた空手を後世に残るような武道にしたいとの思いが強くなってきた。もう残された時間がない、そんな思いで毎日を生きている。

そんな中、数年前から昔より扱いやすい防具ができたことや極真会館の松井館長と長年の確執を越えて、和解した。先述したような後世に残るような武道の創出は私の道場の規模では困難を極めるのが実情だ。しかし、松井館長と私の極真空手観に共通するところがみられたことで気持ちが変わった。現在の私には、極真空手の技術が変質、偏向してきたのを見て、一石を投じなければならないとの思いが強くなっている。つまり、私を育ててくれた極真カラテに恩返しをするために、極真空手家のレベルをあげること。流派を残すことは困難かもしれないが、意識レベルをあげることはできるかもしれないと思っている。たとえ、表向きが私の思想への嫌悪感や批判であっても、私は構わない。少しでも意識レベルが変われば良い。 私が死んでもやりたいことは、極真空手を本物の武道にすることだ。偉そうだが、親鸞や武蔵のようになりたい。だが、荒野をひとり往くような人生になるだろう。否、野垂死にかな…。

【本当の伝統とは何だろう】

繰り返すようだが、私は決して極真空手の伝統を否定するつもりはない。だが、本当の伝統とは何だろうか?私は今、そのことを考えている。私は本当の伝統とは社会に価値あるものと認められ、未来に向けて、その価値を永続していくことだと思う。難しく言えば、新しい価値を創出していくための意味の生成システム(文化)としての機能を有し、かつそれを維持し続けることだ。

換言すれば、それが文化というものなのだ。つまり、極真空手が文化になること。それが未来を託されたものの役割と責任だと思う。これ以上、難しいことを言っても理解されないだろう。しかし、私の言うことが、きっとわかる日がくると信じている。わが斯界に、リーダーと言える人物がいるとすればの話だが…。

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