[第57号:2022-2-7]

 
 
コロナ・オミクロン株の感染が拡大しております。
今一度、マスクの着用、手洗い、消毒、3密に気をつけましょう。
また免疫力の維持や冷えに注意し
健康管理に努めましょう!!
 
 
本道場は、感染を防ぐ効果のある、防具組手を推奨しています。
また最大限、感染拡大に注意してまいります
 
 
 
 

 

本号の内容

 ◎デジタル空手武道教本サイトの閲覧にはPWの入力が必要です(一部PWが不要のページもあります)。 IBMA極真会館増田道場の会員には、閲覧用のPWを伝えてあります。もし、忘れた場合は事務局までメールにてお問い合わせください。 ◎デジタル空手武道通信の映像はインターネツトへの接続環境のあるところで閲覧することをお勧めします。

 

  • 巻頭コラム:拓心の道〜増田 章の武道論
  • デジタル空手武道教本更新のお知らせ〜「昇級審査項目について」のページを更新しました。
  • 必修組手型のページを更新しました!
  • 二手決め、三手決め約束組手修練法のページの追加(デジタル空手武道教本)〜有段者必見!
  • 特集1:私の空手修行〜上原智明(62歳)
  • 特集2:防御技とは何か?〜デジタル空手武道教本ページの更新
  • 特集3:拓心武道メソッドについて
  • 編集後記 第57号

 

◎1月中旬にデジタル空手武道教本のPWが変更になりました。

イベント案内

  • 第13回 月例試合(2月30日)〜現在、参加者を募集しています。皆さん、試合経験、思い出作り、などなどのために奮ってご参加ください。→申込はこちら

2月のイベント予定

  • 2月20日(日) 昇級審査
  • 2月27日(日) 第13回 月例試合

◎2021年1月の月例試合はコロナ・オミクロン株感染拡大の様子見のため、中止いたしました。

巻頭コラム:拓心の道〜増田 章の武道論

       

 

 

 

 

【拓心武術とは】


 拓心武術とは、極真空手の基本を基盤に、増田章が各種格闘技、武術を融合、再編集した武道修練体系のことです。ただし、その修練体系は未完成です。今後も、研究を続け、修練体系を更新し続けていきます。
 

 拓心武術の中には、現在の極真空手人が遺棄した、また理解していない極真空手の伝統的な技を再生するかのような技術も含まれています。つまり、拓心武術は古伝・極真空手を活かすものでもあるのです。その意義は、武道や武術本来の実用性と技能、そして精神(思想)の再生です。昨今、武道とスポーツは異なる。また、自分達の行なっていることはスポーツではなく武道だ、と言い張る人達の言には絶望感さえ抱きます。私は、どこが違うの、と聞きたくなります。すると、武道には礼法があるがスポーツにはない、とか、武道とスポーツは精神性の深さが異なる、というような言を返す人がいます。それに対しても、私は一体どこに精神性の深さがあるの、と聞きたくなります。挙げ句の果てには、武道は命の遣り取りを前提とするもので、スポーツのような「遊び」を起源とするものではない。武道とは、命懸けのものである…云々。本当に滑稽だと思います。また礼法も形だけのものです。一方、中には信念を持って日本武道の独自性を継承・保存している人達もいるかもしれません。そのような人達に対しては、私は敬意を持っています。

【現代武道の多くは】



 今日、伝えられている現代武道の多くは、「力」で圧倒するというということを軸としています。また競技という手段は、団体の宣伝と権威獲得という人間の欲心を刺激するためです。さらには、自分達の決めた勝者をアバター(力の化身)にして、あくなき不毛な「力」と権威の競い合いしているかのようです。私は、武術の本質は実用性と技能、武道の本質は武術の理法(理合)の体得を目指すことによる人間形成、そしてスポーツの本質は心身の創出(創造)と解放を目指すことと捉えています。非常に直感的な捉え方ですが、私はそのように捉えています。
 しかしながら、どこに実用性を極めた武術が現存する?どこに武術の理法(理合)の体得を目指す武道が存在する?と聞きたくなります。また、スポーツもエンターテインメント性やスペクタクル性に翻弄され、本来の心身の創出(創造)と解放を目指してはいないかもしれません。私の見方が正しいとしたら、それは斯界の指導者等が、目先の利益を優先し、本質を生かしていないからでしょう。
 ここで私が述べたいことは、我が国が育んだ武術と武道にも、スポーツ同様の心身の創出(創造)と解放という要素があるということです。おそらく解放という要素については理解が難しいと思いますが、日本人が考える自由無礙(融通無礙)と思っておいてください(言うなれば不自由の中の自由)。そのように考えるのは、日本人の思想に仕事を労働と考えずに、「生きがい」「道」と考える傾向があるからです。そのような感覚と心身の創出と解放という目的は、軌を一にすると思います。例えば、仕事に真剣に打ち込む日本人が、その仕事を「生きがい」「道」と考えます。その事実は、日本人には実用性の追求のみならず、理法(道)を求める意識があるからです。そして、そこには心身の創出(創造)と解放(融通無礙の境地)による「幸福感」があります。


【日本人の「遊び」に対する認識】


 少し脱線すれば、私は日本人の「遊び」に対する認識に、時々閉口します。一般的な日本人は、「遊び」という言葉から「子供の遊び」を喚起します。そして、遊びというとどこか真面目でないもの真剣でないものというように認識しているのではないでしょうか。
 ここで少し難しいことを述べますが、「遊び」という行為に関する考察は、欧米においてはかなり前から行われていました。オランダのホイジンガが著した「ホモ・ルーデンス」には「遊び」についての深い考察が述べられています。その中で、遊びの機能として以下のようにあります。
 『遊びは、何かイメージを心のなかで操ることから始まるのであり、つまり、現実を、いきいきと活動している生の各種の形式に置き換え、その置換作用によって一種現実の形象化を行ない、現実のイメージを生み出すということが、遊びの基礎になっていると知れば、われわれはまず何としても、それらイメージ、心象というもの、そしてその形象化するという行為(想像力)そのものの価値と意義を理解しようとするであろう。遊びそのもののなかでのそれらイメージの機能を観察し、またそれと同時に、遊びを生活のなかの文化因子として把握しようとするであろう』(ホモ・ルーデンス/中公文庫)
 要するに、遊びとは原理的に人間の行為を高次化する機能そのものです。つまり私の見解は、武術であれ、武道であれ、スポーツであれ、ホイジンガが考察した「遊び」の機能を内包しているということです。ゆえに、スポーツは遊びを起源とし、武道の起源は遊びなどではない、というのは、ある面正しいように聞こえますが、そういうことではないのです。オランダの先達が考究したことは。おそらく、欧米のプレイ(する)という言葉を日本語の「遊び」としたところに問題があったのでしょう。また日本語の「遊び」には、もっと奥深い意味があります。ここではこれ以上述べません。ただ、本来、遊びという行為は真剣であること、そして創造的であることを意味しているように私は考えています。つまり、「遊び」とは、偶然が支配する自然に対峙する、自己目的的行為だからこそ、真剣であり、かつ創造的な行為なのです。また、武術などの実用的な行為、また武道でチャンピオンを目指す行為も偶然が支配する自然と対峙する面があります。それは、他目的行為でありながら自己目的的行為なのです。

【立ち戻りたい地点】

 話を戻せば、スポーツの本質は自己目的的行為だと私は考えます。そこに、そのゲーム・勝負を観客に見せることに価値を見出すようになってから、発展すると同時に他目的行為として面が優位となってきたのだと思います。しかし、本来スポーツが人間に与える価値は、観客のためのスポーツ、商業的なスポーツではない、と私は考えています。
 また、他目的行為としての実用性を求めた武術も、実用性の追求が全てではなかったと思います。また理法の体得を目指した人間形成としての武道も、集団形成と共に集団内の権威の維持が目的ではないはずです(もしそうならば、私は武道など掲げません)。もちろん、武道に限らず、武術、スポーツも人と人とが技なり、思想なりを共有するとするなら、そこに、何らかの規範、ルールが必要なことは当然です。
 今、私が立ち戻りたい地点とは、高いレベルの武術の追求、また武道の追求、そしてスポーツの追求に、共通する地点です。それは、自らの行為により「自」を創出すると同時に「他」を創出する観点・価値観です。
 さらに述べれば、古の武人は、武術を極めていくにつれて、「自由無礙」の境地を求めました。それは、先述した「遊び」が求める境地と同じものだと思います。ただし、「遊び」には、もう少し具体的な目的があることは、学者の方々が述べています。さらに言えば、より高次の武道の追求にも、より高次のスポーツの創出にも、「遊び」の本質を理解する必要があるのです。
 僭越ながら、私はスポーツの本質を生かし続けていくならば、人類の精神の高次化に役立つと考えています。また武道の本質も、それを生かし続けていくならば、スポーツと同様に人類の精神の高次化に大いに貢献できうるものだと考えています。問題は、このことをスポーツ人も武道人のリーダーが理解していないことです。しかしながら、すでに年老いた私に余裕はありません。ゆえに自分の直感を信じていきます。そして私が拓心武術に託す夢は、武術・武道を人間力を開拓するもの、心の眼を開く手段とすることです。
 断っておきますが、私は全時代的な力の追求、相対的な力の獲得を全否定はしません。あくまで、バランス、そして活かし方の問題だと思っています。しかしながら、相対的な力、強さの追求は他の人に任せて、もう一つの生き方、そしてあり方の軸を私は作っていきます。

全文〜続きはこちらから

 

 

 

デジタル空手武道教本の更新情報(リンク)

◎昇級審査を受審する人、必見!

◎昇級昇段には必修組手型の習得が必要です。また、組手に上手くなりたい人は、先ず以って組手型の習得をしてください

◎指導員は必ず約束組手・修練法(拓心武道メソッド)を理解してください。

 

 

特集1:私の空手修行〜上原智明(62歳)

私の空手修行

 

第1章 空手との出会いと挫折

第2章 社会人としての空手・武道修行

第3章 増田道場との出逢い

第4章 TSルールによる試合組手への挑戦

第5章 昇段審査を受審して

 

第1章 空手との出会いと挫折

 

 私の空手との出会いは、私と同世代の多くの方々と同様に、大山倍達先師の半生を描いた「空手バカ一代」の劇画とアニメ、「地上最強の空手」などの一連の映画、すなわち「極真空手」であった。その圧倒的なパワーと高度な技術に子供心をすっかり躍らされ、「自分も強くなりたい。」と思った。

 大学に入ったら、空手部に入ろうと決めていたが、入学した大学に極真空手の空手部、同好会が無かったので、いわゆる「伝統派空手」である和道流の体育会空手道部に入部した。極真空手では無かったが、空手を学べる喜びで、週6日の稽古と年3回の合宿に耐え、同期生十数人の中で、一番早く初段を取得することが出来た。しかし、順調だったのはここまでで、以降、伸び悩む事になった。それは当時から現在まで続く、「寸止めルール」による組手稽古と試合が大きな理由であった。寸止めルールの攻撃部位は、上段の顔面、中段の腹部(下段、脚部は無し)で、突きと蹴りによって攻撃するが、防具を着装しないため、直接当てることは禁じられ、突き、蹴りを、直前で止めるか、若しくはスキンタッチまでは良い、とするものである。折角、基本稽古により力強い突き、蹴りが出来るようになってきたのに、止まっている相手ならまだしも、動いている相手に、稽古してきた力強い突き、蹴りを出すと、寸前で止められず、当ててしまうことになる。

 その結果、組手稽古においては、初めから「直前で止めるように作られた突き、蹴り」を練習することになり、念頭に「直接打撃の極真空手」があった私には、本末転倒のような気がしてならなかった。すなわち拳は固く握らず、肘から先に延ばすだけで当たる瞬間に拳の力を抜いてしまうものである。蹴りも、豪快な上段回し蹴りは、寸止め不可能なことから、ほぼ使用不可で、接近戦から引きながら軽く蹴って止める程度の上段蹴りを練習したりした。最近の組手試合では、止めやすい裏回し蹴りやサソリ蹴りなどの変則的な蹴りが多用されている。
また、寸止めルールを守らず、顔面を突き込む者がいることにも閉口した。組手稽古中、間合いに入ってきた相手に、カウンターで顔面を突きで寸止めしても、相手は当たらないことを良いことに、そのまま出てきて、私の顔面を殴ったりする。「先に上段突きが入っている」と主張してみても、痛い思いをするのは私なので、腹立たしかった。

  公式戦も同様で、特に私立大の強豪校の選手は、試合中に、上段突き(寸止め)を取られた、と思った直後に、反則の上段突きを意図的に当て、こちらが体勢を崩すと、審判も、決まったはずの上段突きを取らず、反則のポイントだけになることが多々あり、丁寧に試合をしている自分が馬鹿馬鹿しくなることが多々あった。

 最も良くないと思っていたのが、攻撃が当たらないことを前提にしているので、組手稽古において、受けをほとんど稽古しないことであった。組手の受けは、寸止め前提なので、腕や手を入れるだけで十分で、いつも「極真空手なら蹴り技で腕をへし折られるだろうな」と感じていた。そんなことから、組手稽古に身が入らず、団体戦のレギュラーも定着せず、試合結果は勝ったり、負けたりと、目立たない選手のひとりで、モヤモヤと疑問を感じながら、4年間の空手道部生活を、挫折感を持ったまま終えてしまった。

全文〜続きはこちらから

特集2:防御技とは何か?〜教本ページの紹介

 拓心武術の修練における防御技の役割には、「相手攻撃の効力を遮断(インターセプト)する」こともあるが、それだけではない。まず、防御技とは相手の攻撃の効力を無力化、弱体化する技である。さらに拓心武術の防御技とは、相手の攻撃技を一瞬にして無力化または弱体化し、かつ自己の反撃のために相手を崩し、反撃の効力を最大化するための技なのである。

 ゆえに、拓心武術における防御技は、単体で使用することも可能だが、拓心武術の修練の目標からすると、「応じ技」として使用することを試みてほしい。拓心武術の「応じ技」とは、防御技と組み合わせ、攻撃技を活かすためのものと言っても良い。この技を活かすということが、戦いの理法(拓心武術の戦いの理法)の習得に繋がる。また、防御技と攻撃技が別々とは考えないでほしい。拓心武術の防御技と攻撃技の組み合わせとは、「応じ技」として、局面に応じ、その都、度新たに創出される技を見て、その真偽、高低を判断しなければならない。また、拓心武術の修練では、応じ技を「防御技×攻撃技」という表記で表す。その意味は、防御技も攻撃技も拓心武術の「応じ」という「術」の構成要素だということを認識してほしいからである。(デジタル空手武道教本・防御技についてのページより)

 

特集3〜拓心武道メソッドについて〜教本ページの紹介

 

 拓心武道メソッドとは、極真会館増田道場で行われている空手武道の修練方法の一つです。極真会館増田道場では、極真空手の基本と型の稽古に合わせて、拓心武術の修練(修行)を行なっています。その拓心武術の稽古法のことを「拓心武道メソッド」と言います。

 拓心武道メソッドの目指すことは、拓心武術と極真空手の稽古を老若男女の健康増進、心身強化、また創造性の発揮(認知機能の向上と維持)に役立たせることです。その修練の核になるのは組手法です。組手法を中心とするからこそ、基本技術の修練の重要性が理解できます。またTS方式の組手修練の目指すことは、これまでの空手の稽古で行われてきた組手稽古とは異次元のものです。拓心武道メソッドを体験すれば、そのことを必ず実感できると思います。ただし、その実感には、これまでの空手稽古に対する認識を変えることが必要となります。その点に時間と労力を必要とするかもしれません。ゆえに、時間をかけて、丁寧にTS方式の組手修練の目指す地点を伝えていきます。

続きはこちらから

 

拓心武術の構え

 

 

 

 

重要なお知らせ

  • デジタル空手武道教本は、不定期にコンテンツを修正、補充(アップロード)していきます。道場稽古の予習、復習に活用してください。
  • IBMA空手武道チャンネルには「自宅でできる空手武道レッスン」を掲載しています。参考にしてください。
  • IBMA極真会館の重要なお知らせは、メールでお知らせしています。会員道場生はメール登録をお願いします。
  • デジタル空手武道教本はIBMA極真会館の会員道場生向けの教本です。閲覧にはPWが必要です。一斉メールでお知らせしていますので、必ずメモしておいてください。もし、忘れた場合は、事務局までお問い合わせください
  • 極真会館増田道場生の皆さんへ〜年会費(半期分)を納入された方には1000円分のTSクーポンが発行されています。TSショップでの修練用具の購入にお使いください(TSクーポンの有効期限は発行日から1年間です︎/新規入会者は除く)→TSショップはこちら
  • セキュリティー管理のため、デジタル空手武道教本の閲覧のためのPWは定期的に変更されます。連絡用メールアドレスを本部事務局までお知らください。登録のない方には道場からの連絡が届きません。

 

 

第57号 編集後記

  • 第57号 編集後記は2月7日に掲載ます。
  • 腰と膝が痛くて、PCに向かえません…。

 朝起きて思うこと。「喉は痛くないか」「熱感はないか」「頭痛は」「膝の具合は」「肩の具合は」「腰の具合は」、さらには目の調子は大丈夫か?そして今日も無事だ、と安堵する。私の1日は、そのようにして始まる。その後、コーヒーを飲みながらパソコンに向かい始める。構想する空手武道教本を完成させるためだ。挿入テキストの書き込みや修正、理論の執筆、動画編集、またサイト機能の構築などなどやることが山積している。

 20年前は外注していたが、現在は自分でやった方が先に進むことができると判断して自分で行っている。だが、プロに頼んだ方が、「見た目」や「機能性」はよくなるに違いない。だが頼むことはできない。外注するお金がないからだ。

 私は多い時には20時間もパソコンに向かう。また本を読む。寝ない時もある。そして腰が壊れる。膝も腫れる。こんなことを吐露すれば、長年、私の身体を治療してくれている、若い治療師立ちに叱られるに違いない。

「何してるんですか?」「増田さんは馬鹿なんですか?」私は若い治療師に「すみません」「私は馬鹿です」と謝る。
「でも、新しい武道をどうしても作りたいんです」「死ぬ気で毎日を送っているんです」治療師は「何言ってるんですか」「死んだら元も子もありませんよ」半ば、変な人だと思いながらも叱ってくれる。そんな親友同士のような、家族のようなやりとりに私は癒される。私を見てくれている治療師たちとの関係である。治療師たちは、私の子供ぐらいに若いが、しっかりしていて、かつ腕も良く、そして優しい。

 昇級審査用の組手型、組手技、組手稽古法などの教本ページを制作、更新した。私の道場は、稽古法、理論が、他の空手道場の5倍はあるに違いない。もちろん、それを全て道場生に指導はしていない。伝える時間がないからだ。にもかかわらず、その修練体系を全て残しておこうと必死に作業を続けている。私に構想する修練体系は皆が考えている以上に膨大だ。私自身が完成させられるかどうか不安である。また、重要なのは、その修練体系を皆が使うための仕組み、道筋を作り上げることである。そうでなければ、ゴミ同様になるかもしれない。

 私が目指すことは、武術、空手武道のオペレーティングシステムだ。それができれば、どんな人でも空手武道の修練を楽しむことができる。「修練を楽しむ」というと拓心武術を修行の手段だとする考えと矛盾するではないかと言われるかもしれない。しかしながら、楽しむと言っても、何も享楽的な楽しみを意味しない。ある意味、自を抑制しながら、他を生かす。その中で、自他一体の境地に遊ぶことが、私のいう「楽しむ」ということである。換言すれば、それが私の考える「悠々自適」の境地である。

 拓心武術の修行の目的は、有事を想定しつつ武術を身近に置きながらも、有事の起こりを未然に察知し、かつ抑制し、悠々自適と自の身体と心を楽しむことと言っても良い。
 

【三島由紀夫について】

 

  過日、石原慎太郎氏が亡くなったと聞いた。石原氏に対する評価はここではしない。ただ、石原氏が、私の父と年齢が近いこともあり、寂しい気持ちが湧いたことだけは書き記しておく。
 また一人、また一人と先輩がいなくなる。本当に寂しい。雪降る故郷の父に電話をかけた。ただ「身体に気をつけて」「コロナが収まったら会いに行くから」とだけ伝えたかった。

 私の原動力は、幼い頃から寂しい気持ちだった。理解できないかもしれないが。また、何もないところから何かが生まれるなどとは想像もできない。むしろ、混沌の中から新しいものが生まれるといったイメージの方が理解できた。しかし、何もない荒野から何かが生まれるようなイメージが浮かぶ時がある。今、幼い頃のように、訳のわからないことを考えている余裕はない。

 さて、石原慎太郎氏に関しては、文学者、政治家としてよりも、三島由紀夫との友人として興味があった。誤解を恐れずに言えば、石原氏は三島氏をよく馬鹿にしていたように思う。

 もちろん、三島氏と石原氏のやり取りの場にいたことはない。ゆえに本当のことはわからない。だが、活字に残された石原氏の言動を、石原氏らしいなと思ったのを記憶している。同時に三島氏が理解されないことに寂しさを感じていた。

 私は三島のファンである。だが、文学に対するファンではない(文学は語れない)。彼の思想家としての活動に強く共感するからだ。私はコロナパンデミックが拡大する直前だったか、三島由紀夫氏のドキュメンタリー映画(三島由紀夫VS東大全共闘〜50年目の真実)を見た。私は三島氏の態度に尊敬の念を持った。

 忙しいに日々の中、その映画のことを忘れていた。だが、石原慎太郎氏の逝去で三島由紀夫氏のことを思い出した。大好きな人の姿を再び、ネットフリックスで観た。

  僭越ながら、三島由紀夫の言葉から感じることを書いてみたい。あくまで増田が三島氏の言動から感じる部分として、他の三島シンパの方々には容赦を願いたい。

 『人間が「私(自)」として誕生し、かつ生かされる基盤は言葉によってである。その言葉はあらゆるものを創造する力を持つが、同時に絶えず無秩序に向かう。だからこそ秩序を形成する「力」が必要である。秩序を形成する「力」がなければ、「私(自)」は担保されない。また、その「力」は共同体と文化によって担保される。言い換えれば、その「力」の遠心力を抑制し、制御する絶対的な「力」が必要である。それが天皇という絶対的な力(存在)なのだ。
 ただし、その力(存在)は、決して私的なものであってはならない。それは私的なものを統べる公的なものでなければならない。それは、決して機関の一部ではない。天皇の存在とは、日本人の叡智であり、例えるならば、日本という大地が有する力なのだ。また、その大地、土壌を守ることが、我々日本人の責任だと。
 さらに言えば、その大地、土壌としての日本を汚し、壊す権利は誰にもない。あるのは、それを護る義務と責任だけだ(増田 章)』

 三島由紀夫の幼少期は、ひ弱な少年だったと思う。しかしながら、文学、言葉の力によって、内なる力を顕現させた。晩年、マッチョな自己を追い求めたのは、その文学の主題であった「エロティシズム」の延長かもしれない。だが、そうではなくて、自己の身体に自信を持った時に「エロティシズム」の果てに新たな地平のあることを直感したのだと思う。つまり、「自」を本当に護るものとは、日本語(母国語)であり、文化であると。そして、それらを護るものが母体としての共同体(日本国)であり天皇だと。

 身体(個体)は、共同体(自他の集合)によって育まれ、生かされる。だが、共同体は自らの組織を守るため、時に自(私)の身体(個体)を殺す。しかし、三島氏は自(自)を護るために、共同体を創り変えなければならない、と感じたのではないだろうか。それが知性ではなく、身体で理解できたのだろう。おそらく三島由紀夫氏は、本来、人を傷つけることなどしない、とても優しい人だったのだろう。しかし、身体(ある程度頑強な)を持ちえた時に転換があったのではないだろうか。その地点から、「自」と「他」を捉え直して、天皇を考えたのかもしれないと思っている。

 映画の中、東大生を前にした三島由紀夫氏は、「非合法な暴力は否定しない」と語っていた。その裏を考えれば「合法的な暴力の欺瞞」を示唆していたのであろう。また、国家もある意味、暴力装置である。映画では、その理不尽さに抵抗する若者たちに共感を示しつつも、もっと人間の根源的な部分を基盤に東大の学生と対峙していた。それは、若者に対する愛情、そして敬意が溢れていた。私の感性では落涙するぐらいの感動である。そのように感じるのは、多くの権力者は、若者や女性を見下し、時に感情的に罵倒する。そんな政治家、知識人、指導者は、私が最も良くないと思うあり方だ。もちろん、私にもそのような面がないとは言わない。しかしながら、それは命懸けで抑制しなければならないことなのだ。補足すれば、三島由紀夫氏の思想は、まさしく「知行合一」であった。また三島氏は、文武両道(文武一道)の徒だったと思う。

 私の想像だが、、戦前、戦後の大人の態度のあまりの変わりように、若い三島由紀夫も「本当の強さとは何か」を考えたことがあったのだと思う。そして、辿り着いた境地が、先述した今を生きる者の責任と義務である。

 【極真会館のこと】

 ここまで書いて、直感することがある。我が極真会館のことである。なるべく端的に述べておく。極真会館の分裂は、決して選択してはならないことだった。そして分裂の原因は、全ての支部長、チャンピオン、そして私(増田)が間違っていたからだ。正しかった人など一人もいない。私は、立場の違いの正論などという考えは、偽善的、かつ欺瞞だ、と思っている。
 極真会館を壊す権利は誰にもない。あるのは護る責任と義務だけだ。そして護るべきは、ただ一つだった。大山倍達先生が作り上げた世界大会である。今からでも遅くない。そのことが理解できれば、一つにできる。

 三島由紀夫氏の話に戻るが、これからの日本も同様である。日本と日本人が自覚しなければならないことは、その責任と義務である。それを伝えるために、思想的な変革が必要だと唱えたのだろう。だが、多くの人に理解されず、嘲笑された。おそらく非現実的だと。だが、私はそうは思わない。
 蛇足ながら、三島由紀夫氏は空手も習っていて、対談集の中で空手を語っていたが、その部分はいただけない。もし、同じ時代を生きていたなら、私の空手武道観を提示したい。そして、三島由紀夫氏を支持したい。

 

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