[第60号:2022-5-31]

 
 
 
5月はデジタル空手武道通信の発刊が遅くなりました。
過ごしやすい季節となりましたが
マスクによる熱中症予防などに気をつけてください。
 
本道場では、コロナの感染拡大を防ぐため
マスクの着用、手洗い、消毒の徹底を継続します。
 
さらに防具組手により飛沫感染、空気感染を防いでいます。
少々疲れてきましたが、
今しばらく
感染予防に気をつけてください。
 
 
 
 
 
 

号の内容

 

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  • 巻頭コラム:組手力〜決定力を磨く
  • 特集1:第13回月例試合の模様(2022年5月29日)
  • 特集2:組手技能を向上させたい人必読!〜組手型を習得しよう  
  • 編集後記 第60号

◎1月中旬にデジタル空手武道教本のPWが変更になりました。

巻頭コラム:組手力〜決定力を磨く

             

 

 

 

 

【増田道場における組手修練の目的】
 

 先日、昇段認定のための組手動画を見た。しかし、その組手を見て、私の考える組手修練の目的が理解されていないと感じた。それは、私の伝え方が下手だからだろう。ゆえに、3ヶ月ぶりに実施した、先日の月例試合の冒頭に「組手修練の目的と組手力」について述べた。
 増田道場では、月に1回、組手試合の機会を設けている。本部道場の広さの関係で定員は20名までだ。久しぶりの試合で参加者は少年部、中学生、高校生のみで定員に達しなかったが、みんな上達していて嬉しかった。

 ここで改めて極真会館増田道場の月例試合の目的は、昇級昇段のための組手技能の向上と顔面突きありの新しい組手法に慣れるためだということを述べておきたい。その目的を達成するため、今回、私は組手修練の目的と組手力について説明するための概念用語を考えた。正直、小学生には難しいと思ったが、皆理解できるという。もちろん完全に理解はしていないだろうが、ある程度は理解しているようにも見えた。問題は、他の道場生には理解していない思うので、その内容をいかに簡単に述べておきたい。

【組手力~決定力を磨く】

 まず、増田道場における組手修練の目的は、試合に勝つことを目標・手段として、「組手技能を高める」ことにある。言い換えれば、目的は組手技能を高めることであって、勝利という目標・手段は目的ではないということでもある。だが、その部分を認識していない者には「組手技能の上達」に必要な自己分析はできない。言い換えれば、「技」が高まらないし、深まることはないだろう。

 次に、ここでいう組手技能とは「組手力」と言い換えても良い。繰り返すが、この組手力を理解するには、「組手力=試合に勝つこと」また「組手力=相手に攻撃をうまく当てること」と考えてはならない。多くの者が組手力の高低を未熟、かつ、曖昧な判断基準により測っている。そこで組手力を判断するために、組手力を6つの要素に分けて考えることとする。

 その6つの要素とは、1)技に応じる力(応じ力)2)技を読む力(読み取り力)、3)技を誘い導く力(誘導力)、4)技を崩す力(崩し力)5)技を封じる力(封じ力)、6)技を決める力(決定力)だ(月例試合の時と順番を変えた)。
 補足を加えれば、1)の技に応じる力とは、相手の技に防御技を使い応じる技能のことである。2)の読み取り力とは、相手の技をいち早く読み取る技能のことである。3)の誘導力とは、相手の技を囮技を使って相手の技を誘い導き、その導いた技に応じる技能である。4)の崩し力とは、相手の技を攻撃したり防御するのみならず、相手の態勢を技によって弱い状態にする(崩す)技能のことである。ここでいう弱い状態というのは、防御したり、反撃したりすることが困難な体制にすることでもある。5)の封じ力とは、相手の技を間合いを外して無力化したり、技を使って出せなくする技能のことだ。6)の決定力とは、1~5の組手力を使って、相手との攻防を自己が正確に理解、かつリードした上で、「今、この場所しかない」という「機」「空間」を捉えて技を決める技能のことだ。それが拓心武道でいう決定力の意味である。
 

  繰り返すが、拓心武道の組手修練において目指す理想は、この今、この場所しかないという「機」「空間」を捉える決定力を磨くことである。言い換えれば、拓心武道の目指す理想は、また、今、ここ(場所)において最高の自己表現(技)を駆使することである。もう一つ、組手力を考える上で重要な概念、認識は、組手力の6つの要素が密接に連係しているということである。たとえば、応じ力は読み取り力と連係している。また、誘導力は崩し力と連係している。さらに崩し力は封じ力に連係している。そして、相手の技を封じ力は、決定力に連係する。さらに、個々の技能の働きが縦横無尽に繋がることで、技の効果を最大とする。以上、簡単に組手力と6つの要素を解説した。
 

  今後、新しい組手法による修練を行うには、その要素を観点にして組手を観ると良いだろう。そうすれば、自分の組手力がどのぐらいかが認識できるようになる。おそらく、多くに人が相手より優れたスピードや体力を使って相手を圧倒しているだけだ。そのような要素は、格闘技的な強さには必要な要素だ。だが、拓心武道、そして増田道場の組手修練の目的は、格闘技的な強さをひとまず棚上げしている。その理由は、それを目指さないというより、さまざまな年齢、性別の人たちが一緒に組手技能を追求できるような修練法を修練の柱としているからだ。ゆえに、破壊力を養成する修練は別に行えば良い。また、この組手法の核にある拓心武術は、相手を殺傷可能な小武器(独自、かつ誰でも入手可能な)の使用により、相手殺傷力(破壊力)を強化して技能を行使することを包含している。
 この意味が理解できない人は拓心武道の組手修練の目的・意味も理解できないかもしれない。そして、組手力は低いままだ。また、この武術的な組手力を体得することができれば、自己形成において、もう少し高いステージの登ることができるのではないかと思っている。

【私自身の組手力】

 我が道場生に対しては、まずは応じ力を向上させることを勧めたい。そのためには組手型をより多く知ることが有効だと思う。そこからしか読み取り力、他は要請されないだろう。また、参考までに、私自身の組手力を評価すれば、以下のようになる。
 私の組手力のおける「応じ力」は中程度である。そして「読み取り力」に関しては、応じ力のレベルに合わせて読み取ることもできているようにも見えるが、実は応じ技の想定していない技に関しては読み取ることが困難かもしれない。ゆえに、戦術のデータベース増やしたい。その上で、攻防が連続し、流れ(展開)の中での読み取り力をさらに強化したい。次に誘導力だが、「誘導力」は相手に応じ力が備わっていなければ効力を発揮しない。ゆえに技能のある相手と組手をしなければ訓練にならない。現在、私の相手となる道場生の応じ力は高くない。なぜなら組手型を半分も理解していないからだ。つまり、組手型の中身である戦い方の原理原則が理解されておらず、行き当たりばったりの組手(出たとこ勝負の組手)だからだ。そのような相手との組手は反応力の訓練にはなる。その場合、その相手に瞬発力や発想のユニークさがある場合だ。また、「崩し力」については、応じ技を打撃技のみならず、倒し技を用いる時に重要となるので、現時点の打撃技のみの組手の場合は、判断が難しい。ゆえに相手意識を崩し(散らして)ことができているかどうかで判断したい。大まかな捉え方では、連係技を効果的に使えているかどうかで判断するということだ。その点では、崩し力は中程度と考えられる。そして「決定力」だが、私自身がこの部分を判断する際には、いかにスピードを落として相手を正確に打てるかを判断基準にしている。技のスピードに頼らず相手を打ち込めるということは、相手の動きを読んでいる証拠である。ただし、顔面を攻撃しない空手では、少しぐらい当たっても効かないとばかりに防御をしない。そのような組手法では、隙とは何か?ということが理解できないに違いない。同様にこの組手法の目的と理念を理解していない者にはこの意味がわからないに違いない。また、合撃(あいげき)を効果的に使えているかも決定力の判断にはなるだろう。だが、現時点では合撃(あいげき)を使うことを抑制しているので決定力の判断はできない。

 以上、自分で自分の組手力を評価してみた。この話を師範代の秋吉に話をしたら、要素ごとに評価表を作成したら面白いと言っていた。善いアイディアだと思うが、そこは今後検討する。まずは各人が自分の組手の内容を印象ではなく、要素をあげて考えて欲しい。
 

  最後に、私は準備が整い次第、拓心武道学校を主宰したいと考えている。目指す武道を完成させたいからだ。だが、完成させるに時間が足りないかもしれないとも思っている。また、その能力もないかもしれない。それでも、私はより高い次元の武道を目指していきたい。
 
 今、私の考える武道の方向性だけは、極真会館増田道場の黒帯有志に伝えておきたい。そして願わくは、いつか私の認識する武道哲学を理解してくれればありがたいことだと思っている。同時に黒帯有志が、未熟ながら私の創始した武道哲学を大事にしてくれるなら、望外の喜びである。
 断っておくが、私の武道哲学とは、極真会館における修行を基盤にさまざまな修練を経て到達したことだ。その極真会館という基盤を大事にしたい。だが、そのことに気づくには遅すぎたかもしれないと思っている。だが、最期まで希望を捨てずに自分の体験を活かしていきたい。それが拓心(拓真から変更)の道である。

 

組手力の6つの要素(技能)

1)技に応じる力(応じ力)

2)技を読む力(読み取り力)

3)技を誘い導く力(誘導力)

4)技を崩す力(崩し力)

5)技を封じる力(封じ力)

6)技を決める力(決定力)

増田 章の著作活動
  • 拓心武道の方向性について述べています。内容をより具体的にした続刊を執筆中です。     

 

 

特集1:第13回月例試合

 

 

イベントの報告と案内

  • 6月5日:昇段講習
  • 6月12日:昇級審査
  • 6月26日:昇段審査

↓第1回 有段者講習会を実施しました(今回から有段者講習会を再スタートします)

↓5月4日:連休中、伝統型と組手講習会を実施しました(2部制)、以下は組手の部参加者

 

有段者・指導員の方々へ

 コロナパンデミックの中、指導員の皆さんとは会う機会が減りました。その代わり、デジタルサイトの内容を充実させています。同時に空手武道理論と修練方法を大幅に刷新することができました。あとは、それを伝えるだけだと思っています。その修練の中心は組手法にありますが、基盤は組手型だと思っています。その組手型の意味と価値が理解せれていません。その価値を理解できないから組手が上達しないのです。今後も組手型を追加・改良、体系化を進めます。

 その組手型は数百種に及ぶでしょうが、その数は決して多いものではありません。一度、全ての組手型を稽古すれば、外見ぐらいは理解できるでしょう(むずかしいものは基本技の習得が必要ですが)。

 ただし、その原理原則を理解し、真に体得するには、繰り返し反復練習と考察が必要です。その反復練習と考察が、自己の能力を向上させるのです。今後、有段者は組手型の理解と習得を必須とします。それなくして、技能があるとは到底考えられないからです。私の道場も含めて、技能のないものが有段者となっている各武道団体のあり方を納得することが私にはできません。ただし、技能が十分でなくても、修練理念や理論の理解が優れていれば認められる部分もあります。また、残念ながら、空手界には組手技能に優れた修練者など、ほんのわずかです。しかし、それは修練体系が不十分で確立されていなかったことが原因でしょう。かくいう増田道場も同様です。ゆえに修練理念、理論の理解を基本に、技能を向上させる修練体系・システムの構築に全力を注ぎたいと思います。

極真会館増田道場の修練体系

 

 

特集2:組手技能を向上させたい人必読!組手型を習得しよう

組手型を習得しよう〜拓心武術とは何か?  
増田 章


 拓心武道(拓心武術)でいうところの組手力で最も重要なのは相手からの攻撃の「読み取り力」です。そして読み取り力の基盤は相手からの攻撃に対する「応じ力」です。その「応じ力」の基盤は「組手型」と「組手経験」のデータベースです。その「組手型」と「組手」のデータベースとは、将棋の手筋や定石のようなものです。

 さらに言えば、組手経験のデータベースをより有効なものとするには、組手法が戦いの理法に合致するものでなければなりません。つまり、組手法が戦いの理法に合致するものでなければ戦いのためのデータベースとして有効ではないというということです。

 私が考案した拓心武術の組手型は、相手の攻めに対する防御と反撃のための原理原則が示されています。この原理原則と技術の種類をより多く、心身に有するものが、よりさまざまな戦いに対応できる者だと思います。

 なぜなら、戦い方や戦いの局面により善く対応するには、その局面に対するより深い認識が必要だからです。私は、その認識のない者、また、その認識が浅い者により善い対応ができるはずがないと考えています。ゆえに、もし私が戦いに臨むとしたら、多様な相手の多様な戦術、すなわち戦い方のパターン(戦術の型)やその対応法を、なるべく早く知りたいと思うでしょう。そして、十分な対策と準備をするでしょう。なぜなら、負けたくないというより、できる限り自分を生かしたいからです。
 
 空手選手だった若い頃の私は、戦う相手の技や戦術を研究し、それに対応するための組手型を考案、かつ、その組手型を体得すべく訓練しました。それによって、打たれ強さとは異なる防御力が身についたと思います。しかしながら、まだまだ不十分です。選手時代を終え、30年がすぎました。その間も、過去の経験を吟味したり、他の武術を研究し続けています。もし、もっと早い時期から、今日のように録画用のハードや情報を管理するソフトが充実していれば、私の戦い方は、もっとレベルの高いものとなったと思っています。

 さらに言えば、私が若い頃に経験した空手試合の想定は実際の戦いの状況とはかけ離れています。はっきり申せば、戦いとしては不合理な想定です。そこで、私は戦いの原点に立ち戻り、より普遍的な戦いの理法を体得すべく、組手法を変更しました。その想定は小武器の使用を前提とするものです。その結果、極真空手で喪失した伝統技の使い方が蘇生しました。伝統技の蘇生は私の悲願でしたが、案ずるより産むが易しではないですが、組手法の変更、戦いの想定が変われば、伝統技が生まれ変わりました。また断っておきますが、ここでいう小武器とはナイフや手裏剣や棒、などです。そのような小武器の使用を前提にしたものが拓心武術です。その拓心武術を高めるために、独自の小武器の開発や更なる組手や技の研究が必要だと考えています。その研究には、武道人である限り終わりはありません。

 繰り返しますが、組手型のデータベースが「応じ力」と「組手力」の基盤です。そのことを理解できないものは多様な戦いにおいて、自己を護ることができないでしょう。もちろん、戦いに勝利するには他の要素も重要です。ゆえに応じ力だけで完全ではありません。しかしながら、戦いに負けない者は、この「応じ力」が備わっていることとを私は確信しています。

 最後に、戦いにおいて自己を護るための手段が拓心武術です。そして、その修練を通じ、「自己の心身を最も善く活かす道の追求」していくのが拓心武道です。

 

 

 

 

 

 

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第60号 編集後記 弱さから始まり弱さに帰る

【5月の連休】


 5月は寒くも暑くもない、大変過ごしやすい季節だ。そんな季節だが、5月は身体の調子が悪かった。それゆえ連休中は読書三昧で過ごした。
 何冊か読んだ本の中で、3年ほど、本棚に寝かしておいた、分厚い哲学書がある。その本は最初に読んだ時、「難しい」と後回しにした本だった。それから、3年ほど経った。その本が、今読むと思いのほか理解できた。否、理解できる時だからこそ、再び手に取ったのかもしれない。また、本を読むとは自己の心が求めていなければ、内容を真に理解することは難しいのかもしれない。もちろん、すぐに読める本もある。だが、そんな本は時間潰しだろう。

 そん中、気晴らしに郊外に出かけた。名刹を周り、山の中や海辺を歩いた。好天に恵まれた。また、連休の最後にもかかわらず、人は少なかった。新緑の山中、穏やかな海辺にはしゃいだ私は、最後に坂道を走った。身体の呼称で衰えた体力を取り戻そうとしたのだ。その時、肉離れを起こした。車中、座りっぱなしで、筋肉が固まっていたのだと思う。後悔は先に立たず。それから3週間ほど、大変だった。

 結局、あまり調子の良くない5月だったが、ついに私は還暦を迎えた。まだ身体は動くが、若い頃のようには動かない。衰えを遅らせようとは思ってはいるが、どんどん衰えていく。そんな自分の身体に対し、これまで大事にしてこなかったことを申し訳ないと思っている。これまで文句も言わずに私の要求に答えようとしてくれた身体には本当に感謝している。そんな思いを持ちながら、私は新しいステージに立とうとしている。ステージというと大仰だが…。
 そのステージとは、身体が衰える中、いかに身体を活かし、楽しむかである。正直に述べれば、そのステージで納得いく自己表現ができないかもしれないと思っている。言い換えれば、演じ切れるかはわからない。それでも、そのステージに登ってしまったというのが実感である。無理なら降りることもあるだろうが…。限界に挑戦するのが習い性になってしまった。

【弱さから始まり弱さに帰る】


 昔を振り返れば、若い頃の私は、より強くなりたいと考えていた。同時に強くなれると思っていた。そして強くなったと思ったこともある。だが、それは勘違いだった。
 今、私には「弱さから始まり弱さに帰る」という思いがある。弱いという自覚があることは悪いことではない。その自覚があるからこそ、拓心武道でいうところの「組手力」が形成される。また、自己の身体という道具を活かすことを意識できる。
 「自己の身体を活かす」、そのためには「技」が必要だ。その技を作り上げる過程で、自己という存在を把握する。その把握の中に楽しさはあると思う。
 断っておくが、技の巧拙は気にしなくて良い。たとえ上手くなくても、自(我)と道具と他とコミュニケートし、その関係性を実感できれば良いのだ。
 なぜなら、技とは自己表現の手段であり、目的は自己表現であると思っているからだ。そして、自己表現の手段が拙くとも、他の自己表現を受け入れ、かつ互いの自己表現を高次化していこうとする心が大事だと思っている。しかしながら、他者のみならず、自己の表現目的が曖昧で低次の欲求に基づく場合、問題が生じる。たとえば、その目的が恣意的であり、かつ、表現手段が暴力的である場合だ。そのような自己表現を受け入れすぎると、人間的成長自体が必要のないものとなってしまう。
 言い換えれば、自己表現の手段としての「技」の修練に意味がなくなってしまうということである。修練自体が、浅い次元の自己の欲求の充足で終わってしまう。断っておくが、かくいう私の自己表現の技は上手くはない。上手くないからこそ、いつも自己表現(技)のあり方を考え続けているのである。

 また、技が上手くなるには、技による自己表現を楽しいものと自覚できることが必要だと思う。ただし、その技が自他の関係性を活かすような理合を基盤とせず、ただ身体的な能力に依存するものであれば、問題である。要するに、私が技というのは、自他の関係性を活かすものであるからだ。もちろん、技を効果的に駆使するには身体的な強さがあった方が良い。言い換えれば、技を創り、駆使するにはある程度の身体的な強度が必要なことは言うまでもない。なぜなら、身体に強度がなければ、技の精度がわずかでも足りないだけで、自己の身体(基盤)が崩れてしまうからだ。だが、そこまでの技の精度を究めることは、私も含め普通の人間にできることではないかもしれない。それでも、武技(相手を殺傷する技)を用い、相手と対峙するなら、そのような精度を追求する覚悟を持たなければならないと思っている。
 そのような覚悟、技の核心を得るために、身体的な強さに頼ることは妨げになる。私はそのように考えている。ゆえに、身体的に優位にある時であっても、自己を弱く脆いものだと自覚し、丁寧に「技」を他に駆使することが大事なのだ。要するに、私は身体的な弱さを自覚することで技の核心が掴めるのではないかと思っている。

 若い頃を振り返れば、私は一撃でブロックを粉砕するような強さを求めた。だが、そのような強さは永遠には維持できない。たとえ一時的であっても、そのような強さを獲得することには意義があると言われるかもしれない。また、永遠に維持できるものなどない。そのように考える向きもあるだろう。しかし、自(我)と道具と他を三位一体とする「技」の追及と理想は、自己存在の本質の自覚につながると思っている。だが、自己存在の本質など、知らなくても良いとほとんどの人は思うだろう。だが、自己存在の本質とは、「他を活かすことができて、初めて自己を活かすことができる」という自覚、そのものなのだと思う。また、その自覚を得ることができた時、人間は自己を掴める。そんなふうに私は思っている。同時に、それゆえ人間は道具を作り、集団を形成し、主義(教義)を掲げて、自他の一体感を強めるのだと思っている。さらに、人間は集団の中で自己の立場を作り、そこを拠り所に自己を確認する。しかし、そのような一体感やあり方は、往々にして自己を疎外する。そのような社会のあり方、社会的自己形成のシステムは行き詰まっているのではないだろうか。また、その姿は、活かしあいではなく、エゴとエゴとの対立、殺し合い(否定し合い)のようにも見える。私が追究するのは、もっと根源的な人間のあり方に立ち戻ることである。


【サーフィンを例えに】


 おそらく、私の言っていることが全く理解されないに違いない。ならば、サーフインを例えに出したい。サーフィンは自己とボード(道具)と波(自然)とが一体となることを楽しむスポーツだ、と私は思う。空手の場合、道具を介在させていないように思っているだろうが、自己と身体を切り離し、その身体を道具として尊重することが大事だ。そのことを理解できるならば、自己を認識する「自」という心がボード(板)を媒介にして、波(自然)という「他」とコミュニケートし、自己の本体の認識としての自他の一体感を得る。そこに本当の楽しさがあるのだと思う。つまり、サーフィンとは、道具(他)と自(自我)と他(自然)の一体感を自己の本体の実感を得るための技能を追求することなのだ。つまり、私の考える他とは、究極的に自然そのものなのだ。だが、人間と社会が自然ではなくなってきている。そこが問題なのである。
 断っておくが、私はサーフィンをしたことがない。故に、サーフィンが私の想像するようなものではないかもしれない。だが、私がサーフィンを行うとしたら、それを求めるであろうということ意味合いで理解してほしい。また、私が述べたいのは価値観の部分である。そして、私の新しいステージは、武術修練を通じ、その価値を体感することだということだ。それは令和時代に誕生した、新しい武道と言っても良いだろう。

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