[第70号:2024-2-2]

 
 
 

第70号の内容

  • 巻頭言:自己の心身との対峙〜武道修行の眼目
  • 特集その1:秘伝・極真空手 ステッキ術の紹介
  • 特集その2:グローブ組手法の紹介
  • 特集その3 緊急提言について〜訂正
  • 第70号 編集後記

   

巻頭言:自己の心身との対峙〜武道修行の眼目

 


昨年の暮れから、思いがけないことが頻繁に起こった。空手の恩師、浜井識安先生の急逝。そして、元日の能登半島地震、などなど。まずは能登半島地震の被災者に衷心より、お見舞いを申し上げたい。

実は、能登半島のある石川県は私が生まれ育った故郷だ。また石川県知事の馳氏は、高校の先輩、また同じウェイトトレーニングセンター(ジム)の先輩でもある。その石川県に元日、地震が起こった。現在、能登地域は、震災の復旧と対応に追われている。そして、未だ1万人以上もの避難者が、未だ不便な生活を余儀なくされている。おそらく、馳知事には、気の休まる時間はないだろう。

今回の能登半島地震における地域への対応における最大の障壁は、被災地の道路等のインフラが損傷したことにある。それゆえ、被災者や復旧のための作業員を十分に送れない。この点が二百人以上の災害死亡者、1万人以上の避難者を生み出し、今もストレスを与え続けている。

私はレスリングで鍛えた馳知事だからこそ、この難局を辛抱強く、乗り切ってくれると信じている。他のリーダーなら、先ず以て体力的に耐えられないだろう。

また、他の地域はもちろんのこと、組織運営や自分自身の生活においても、有事の際のライフラインの確保を準備しておくこと。また、どのような混乱が生じか、またシステムの復旧がしやすいよう、システムのバックアップと簡略化を考えた方が良いと思う。また、もし一つのシステムが崩壊したら、他のシステムで代替できるようにする必要があると思っている。

【武術的な考え】

このことは武術的な考えと同じだ、と私は考えている。例えば、常日頃から、有事の際の生命維持に何が一番大事かを考えておくこと。また、右手がダメになったら、左手を使う。手がダメになったら足を使う。足がダメなら、手を使う。などなどである。私が、今回の災害を見て、直感したことである。このことは武術修練の心得にもつながると思っている。

そんなことを感じながら、現在の空手を眺めてみる。今、多くの空手が競技主体である。しかも、その内容はスタミナくらべ、打たれ強さ比べ、手数足数比べ、身体的な速さ比べ、である。もちろん、その中には優れた技もなくはないが、理法を生かして編み出した「技」ではない。また、それらの技は心眼の追求ではなく、肉眼で見た場合の技の追求でしかないだろう。平たく述べれば、身体能力に頼った技である。理法という視点がない。断っておくが、そのような技にも、身体能力を引き出す理法はあるだろう。また、たとえ理法を生かした技であっても、身体能力によって相手の質量に耐えられるような基盤がなければ、小手先の技、術となる。

私が今、独り実践する武道は、体力が衰えても活かせる技の追求と言っても良い。換言すれば、身体の全ての機能を使えるようにする術の追求である。

【武道修行の眼目】


私も年老い、身体に故障がある。筋力は若い頃の半分の機能しかなくなった。また、使えない部分もある。詳しくは書かないが、だからこそ、ある部分で弱い部分を補完し、ある部分を最大に生かすことを考えている。

若い頃には実践しなかったが、身体が衰えたからこそ、取り組んでいる稽古がある。そんな修行の中で、私は人間には優れた機能があるにも関わらず。開拓してこなかったと反省している。その反省により、創出しているのが拓心武術であり、拓心武道である。

おそらく、残された時間は多くないだろう。なんとしてでも、未開の領域に挑戦したい。そして、これまで行なってきた修行と繋げ、空手の修行を本物の道の修行、すなわち武道としたい。

そんな思いを実現するには、さらに自己の心身と対峙することが必要だ。この対峙とは、浅いものであってはならない。深いものでなければ、到底「道の修行」とはならないと思うからだ。

自己の心身との対峙、私が考える武道修行の眼目である。

 

特集1 秘伝・極真空手のステッキ術の紹介

これから、コロナの前、研究科で少し稽古した、ステッキ術の講習を企画しています。ただし、このステッキ術は、古伝・極真空手の研究のみならず。増田が考案したヒッテインングスティック修練法の研究活動の一環です。

有段者には、基本だけでも習得していただきたいと思っています。また、棒を用いた護身術、そして武術に興味がある方は、参加してください。ただし、この稽古は合宿でしか行わない予定です。増田道場の有段者のみなさんにおかれましては、夏季合宿で行った、古伝・極真空手の逆技15手と合わせて、必ず習得してほしいと思います。

 

特集2 グローブ組手法の紹介

これから、IBMA極真会館増田道場は、武心塾、AKIRA武道スクールの皆さんとグローブを使った組手法と競技法を研究していきます。グローブ組手法は、増田が会長を務めるKWU-SENSHIの仲間たちとも一緒に研究していきます。IBMA極真会館増田道場の皆さんにおかれましては、現在行っている防具を使ったヒッティング組手法をある程度理解していれば、グローブ組手法がすぐに理解できると思います。さらに2種類の組手法を行うことによって、打撃技に関する、より本質的なスキルを認識できるようになると思います。

私の説明を聞いて体験すれば理解できると思います。ただし、防具を使ったヒッティング方式の組手に慣れていることが必須です。拓心武道の防具組手の眼目を理解せずにグローブを使った組手法を行えば非常に危険な組手法となります。

 

特集3 FIHAプロジェクトについて〜訂正

昨年の12月24日、武心塾とAKIRA武道スクール、IBMA極真会館増田道場の有志が集まり、交流会を実施した。この交流会は急遽、計画したものである。おそらく、参加者は、私のセミナーに参加するような気持ちだったかもしれない。だが、私は急ぎ、FIHAプロジェクトの内容の動画を制作したかった。断っておくが、緊急提言とは、少し大袈裟だったと反省している。私は、1秒でも早く、みんなに自分の考えを伝えたかったのだ。要するに、FIHAという名称は、最終的ゴールのイメージを表す、仮の名称と言っても良い。

要は、グローブスタイル(キックボクシングスタイル組手法)とヒッティングスタイル(防具式組手法)と極真スタイル(顔面なし)の組手法の3種を一つのプラットフォームで実施できるような、仕組みを作りたかった。その理由は、そんなプラットフォームを作れば、多様な組手法により、多くの流派に分かれて活動する、空手や格闘技愛好者を一つに繋げることが可能となると考えたからだ。また、3種の競技方法の長所が生かされることによって、各種競技者のスキルが向上する。多少、我田引水的だが、全ての空手愛好者のスキルと武道としての意識が飛躍的に向上する。

その仕組みとその仕組みを稼働させる母体としての各地域の協会と各地域の協会(IHA)を世界的に取りまとめる連盟を作りたかった。それを、私が参画するKWU-SENSHIが主導で作りたかった。だが、KWU-SENSHIには極真空手のプラットフォームとプロフェッショナルキックボクシングのプラットフォームとしての仕組みがある。そこで、私はKWU -SENSHIのアマチュアキックボクシングのプラットフォームを拡大して、FIHAを作れば、良いと考えていた。そうすれば、FIHAは、KWU-SENSHIを核としながらも、公的なスポーツ団体の立場を得られるようになるだろう、そうすれば、各地域の協会は、政府公認のスポーツ団体として認定される道が開かれる。だが、空手やキックボクシングという名称では、少なくとも日本では無理だ。なぜなら、すでにスポーツとしての空手団体がスポーツ協会に認定されている。また、キックボクシングはあまりに格闘技的興行団体としての印象が強く、アマチュアスポーツとして、スポーツ団体には認められないと思うからだ。故に、新しいスポーツの名称をつけ、中身は、これまでバラバラだった各種の格闘技愛好者が集まれるようにするのだ。もし、そのようなプラットフォームが作れたなら、これまで格闘技としてスポーツの仲間には入れなかった、空手やキックボクシングが公的なスポーつになることができるはずだ。だたし、名称にこだわらなければの話だが。だが、私は空手やキックボクシングの名称や団体はそのままにして、掛け持ちで新しいスポーツを共に作ることを呼びかけたい。

それを、私の仕事である、KWU-SENSHIの設立に併せて実施すれば、KWU-SENSHIが、新しいスポーツや武道のプラットフォームの大黒柱となる。結果、KWU-SENSHIのブランドが確立されると考えた。我慢強く、プレゼンを続けたい。FIHAの名称がわかりにくいなら、なんでも良い。今後、名称が変わることもあるだろう。

 

 

編集後記 第70号

昨年末から、大変忙しい。一段落したら、父の顔を見るために金沢へ帰ろうと思っていた。そう思っていた矢先に、私の極真空手の恩師の一人、浜井識安先生が急逝した。昨年末のことである。また、年始は郷里の石川県を地震が襲った。幸い、金沢の実家は被害はなかった。だが、能登地域の人たちは大変なことになっている。そんなまさかの事態がいくつも起こった。そんな中、昨年から関わっている、KWU-SENSHIという空手の世界組織の仕事が思うように進まなかった。問題の一番は、言葉によるコミュニケーションの困難だ。また、私の考えが、先を考え過ぎて誤解を与えるのだろう。

恩師の浜井先生とのコミュニケーションもそうだった。また、道場生とも同じだろう。それでも、道場生は私を信頼してついてきてくれている。本当にありがたいことだ。だが、その道場生ともコミュニケーションの機会が減った。今後も機会は少なくなるかもしれない。断っておくが、私はいつも百尺竿頭に一歩を進めるが如く、前進し続けている。また、空手を面白く、価値のあるものとしようと真剣に考え、行動している。もし、私の空手に対する馬鹿とも思えるような努力を信じてくれるなら、これから始まる私のセッションに参加してほしい。後悔はさせないつもりだ。なぜなら、私の体は年々不自由になってきているが、その中で、本当に大事なものが見えかけている。そして、今、武術の修練が楽しい。今年は、技術体系のみならず、二冊ぐらいの本を書きたい。海外からのオファーもあるので、大変な1年になりそうだが頑張りたい。誤解を恐れずに言えば、恩師の浜井識安先生の急逝は、私に覚悟と原点回帰を伝えてくれた。雑誌の浜井先生の追悼記事の協力に対し、私は浜井先生への追悼コラムを認めた。それを書くために1ヶ月、浜井先生のことが頭にあった。また、浜井先生に教えられた数多くの自己啓発本の中から、「信念の魔術」という本を思い出し、それを再読した。結果、素晴らしい人生の気づきを得た。初めて、その本を読んだ18歳の頃もそうだったが、62歳になろうとしている私を、人生をより良く生きる、スタートラインに戻してくれた。これも、全て浜井先生のおかげかもしれないと思っている。最後に、私考える武道のテーマは「自由」と「個の尊厳」の獲得、それを言い換えれば「幸福」の獲得と言っても良い。その先に平和がある。もし、私の武道哲学が世界中に広まり、みんなが自由と個の尊厳の大切さを自覚し、幸福の掴み方を知ったなら、その先に平和はあるだろう。