老年になっても拳(剣)を交える

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老年になっても拳を交える

2018年04月05日

 

人間を幸せにする武道(空手)を内容の一部を加筆修正しました。今回、加筆修正した部分だけを掲載しました。

 この拙論はとても長いものです。私はこのブログを道場生へのメッセージとして書いています。また、心の友に向けての手紙だと思って書いています。さらに言えば、私の思考実験の記録です。

今、私の頭の中に”ヒット”しているアイディアは、書籍化したいと考えています。後は時間との戦い。体力、気力次第です。

 テーマは、「自他を幸せにする武道」です。私はその内容を加筆修正し続けます。また必要な項があれば付け足します。そうして、最終的に200ページぐらいにして、武道空手への私の提言書、武道論の一つとしたいと考えています。

 4月2日に掲載した、全文と合わせて見ていただければ、幸いです。

【当時を回顧すれば(極真空手の第2次発展期〜最盛期を振り返って)】

 話を戻して、当時の極真空手の状況を簡単に回顧したいと思います。私は石川県で極真空手を始め、その後、大阪で修行し、さらに東京で山田雅俊師範率いる城西支部で、道場を任されていました。山田師範の教えは、相手の攻撃をしっかりと受けるというものでした。その考えは、私が石川支部時代から引き継いだ意識です。
 
 また私は10代の頃、石川支部の先輩で、空手の天才と誉れの高かった、水口敏夫先輩と組手稽古を繰り返していました。その中で、なんとしてでも完璧な防御力を身につけなければならないと、受け技の大切さを強く植え付けられました。なぜなら、水口敏夫先輩は、相手の動きを見切り、技を当てるのが上手かったからです。しかし、城西支部のスタイルに批判的な他の道場では、下段などを受け必要はないと教えられていたようです。つまり、下段回し蹴りを受ければ、それだけ身体の軸は崩れ、反撃も遅れる、ということではないかと思います。そこにすでに勝つことの最先端を追求するという、勝利至上主義(勝負偏重主義)の萌芽が見て取れます。

 そこには、かつてあったと思われる「一撃必殺という理念」はありません。またその技術の基盤である「眼」そして、武道人としての高い「志」もありません。すなわち、当時の極真会を支配しつつあったのは、試合に勝てば官軍という意識だったのではないかと思います。言うなれば、勝利至上主義が支配していたのです。 

【老年になっても仲間と剣(拳)を交えること】

 しかしその意識は、間違いだと断言します。その理由について述べるのは別の機会としますが、大まかにいえば、確かに”勝利”という果実を想定するのは、人を動かすインセンティブにはなります。しかし、そのプロセスにおいて、自己と他者との深く、高いレベルでの成長がもたらされるものでなければ、それは、単なる博打、勝ち負けになって行くということです。補足すれば、一方、人生は予測不可能です。ゆえに決断という行為が博打的に見えることがあるかもしれません。確かに、見る前に跳ばなければならない様な状況があるにしても、その決断がもたらしたことをより正確に分析しなければならないと、私は考えています。たとえ、その答えがいくつもあり、人間の能力では、どの答えが正解かを決められないとしてもです。私は、試合における自己の行為を分析することによって、その技術と人間性が、より深まり、高まるものだと考えています。その「分析を行わないこと」「中途半端にしておくこと」また「更新しないこと」を、単なる勝ち負けで終わる、と表現しているのです。私が考える修練の本質とは、分析、更新、そして検証の連続のことです。また、それを行わないで、過去の実績にあぐらをかいて発言する事、その者を「老害」と言うのです。そう書いて、「お前こそが老害だ」との声が聞こえてきます。

 かくいう私も選手時代、そのような極真空手の意識並びに試合法の流れに飲み込まれて行きました。当然、そのような試合法に合わせざるを得ません。それは、とても苦痛でした。もし、もっと良い試合法があれば、野球選手のように40歳、50歳になっても試合を行っていたかもしれません。

 今私は、剣道のように60歳、70歳の老年になっても仲間と剣(拳)を交えること(組手)が可能となる空手を構想しています。空手家の中には「老年になれば、組手は必要ない」「型の稽古のみで良い」という様な考えもあるでしょう。一面では、その考えに私も同意します。しかし、それは相手を痛めつける、相手にダメージを与えることを、判断基準にしている組手の場合です。その様な意識の組手は、若い時の一時期、経験すれば十分です。一方、型(形)の稽古は、武道人である以上は、生涯必要だと思います。しかし、あえて言えば、型は独り型のみならず、相対型(組手型)の稽古と併行して行わなければ、その深奥には至らないと断言しておきます。それを理解した上での独り型の稽古のみが、究極の形稽古となるのです。

 
 蛇足ながら、空手のみならず武道の試合には、生き死にで、決着をつけられないが故の、極めて主観的な勝負ならびに勝敗の判定の姿が見て取れます。それは人間の社会活動のいたるところにみられる、人間の本質的な部分とも言えるかもしれません。しかしながら、私は単なる勝ち負けとスポーツは異なると考えています。高次のスポーツとは、権力に左右されることなく、人間一人ひとりの深い了解と納得が前提となっているものです。そのような行為こそが、人間の心を解放する役割を担うのです。翻って、そこが武道だというものがいるとしたら、私の考えとは異なります。私の考えは、真の武道と真のスポーツとは、心の解放という面で、共通項があるということです。

 私の言う「人間の心を解放する」とは、単なる快楽の追求を指すのではありません。その本質は、自分という壁を乗り越えることです。蛇足ですが、それを薬物に頼ってはいけません。たとえ、生きるということが苦しみの中にあると思えても、それ自体が心の壁だと知ることです。その様な心の壁を軽々と乗り越える、真の心の強さ(抽象的なたとえですが…)を引き出すことを、私は「心の解放」と言いたいのです。

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