負けを知り、負けを活かす〜野球を視て

 

 ようやく私の空手理論書を書き終えた。原稿用紙で180枚ぐらいの文字数だ。取り急ぎ、遺言だと思い書いた。時間があれば、論文形式にしたかったが、私の修錬理論を述べるにとどまった。もう少し、寿命と気力をいただければ、書き直すこともあるだろう。

 今、内容をチェックしつつ、文字を削っている。その中から一項を掲載しておく。

負けを知り、負けを活かす〜野球を視て

私はさまざまなスポーツを観て、その競技の構造、そして競技者の心理について考えてきた。それは理想の武道を創出することに役立つと考えたからだ。そこから得た勝負論と競技論、そして上達論を野球というスポーツを喩えに述べてみたい。だが、私の幼少の頃とは違い、昨今は野球というスポーツを知らない人が多いようだ。ゆえに、私の喩えが、野球というスポーツの解説ではなく、局面的な勝負の構造から見た喩えだと思って読んでほしい。
 拓心道空手の修練理論に照らせば、攻撃を仕掛ける時は(攻撃者)が投手、攻撃に応じる時は(防御×反撃)は打者だとイメージできる。そして、他からの攻撃に応じ、その技を制する技能の体得を目標とする拓心道空手は、野球における優れた打者を目指すという面が大きいかも知れない。
 ただ、少し脱線するようだが断っておきたい。拓心道空手の修練目標は、野球に喩えるならば、どんな球にも的確に対応し、打ち返す技能を有する優れた打者を目指すこと。同時に、どんなに打者に対しても三振を取ることができる投手、また、一球で打者をアウト(負け)とすることのできる投球術を体得するようなことである。
 つまり、拓心道空手の試合では、打者と投手の両方の視点が必要だということだ。その意味合いでは、昨今、野球ファンを魅了している、優れた打者、かつ優れた投手の大谷翔平選手が拓心道空手人の理想かも知れない。 
 だが、空手競技は、相手の攻撃を被らないよう防御し、かつ、相手が防御できないように攻撃するという当たり前のこととが当たり前になっていない。
 私は野球には相手に対する予測と対応、間合いやリズム、防御(崩し)と攻撃、また相手を騙すという要素があると思っている。その要素は武術に必要な要素と共通である。
 ここで野球のルールを知らない人に、野球における投手と打者の勝負のルールを大まかに説明したい。野球における投手と打者の勝負は、まず投手が打者にボールを投げることによって始まる。そして投手の投げる球が決められたストライクゾーンに三回投げ入れられ、その球を打者が打てなければ、打者はアウトとなる。この場合は投手の勝ち、打者の負けだ。
 次に投手の投げる球を打者が打ったとしても、投手をサポートする野手に上手く処理されればアウトとなる。この場合は、投手の勝ち、打者の負けだ。また、打者の打った球が野手に上手く処理されなければヒットとなる。この場合は投手の負け、打者の勝ちだ。
次に打者がボールを打ち、場外スタンドまで飛ばしたらホーームランとなる。この場合は投手の負け、打者の勝ちだ。
 もう一つ、投手の投げる球がストライクゾーンから外れて、それが四回(四球)続けば、打者は出塁できる。この場合は投手の負け、打者の勝ちだ。また、打者が投手の投げる球を上手く打てずに空振りを三回すれば、三振・アウトとなる。この場合は打者の負け、投手の勝ちだ。また、球を打ったがグラウンド外に出て、かつ野手が上手く処理できなければ、ファールとなる。この場合は、引き分けの様なものだろう。その引き分けは、投手と打者の勝負に結論が出るまで続けられる(永久かどうかはわからない)。以上は非常に大まかな野球におけるルールと勝負の見方である。
 さて、野球における大まかで局面的な視点を前提に述べることを了承していただく。野球における投手と打者の勝負においては、打者側から見れば、一流と言われる打者でも百回に三十三回ほどしか勝てない。つまり、打者は投手と百回勝負をして、六十七回も負けているのである。その事実をどちらが強いのか、というような抽象的な価値基準で認識すると、何もみていないのと等しくなる。私は野球に空手との共通点を見る。
 その共通点とは、野球における打者にも投手にも「自己の技を高め、その技を活かす技能」に対する明確な意識と心構えがあるということである。
  具体的に述べれば、野球というスポーツにおける一流の打者は、如何に自己の打率を上げるかを意識している。その上で、ホームランや打点(空手で言えば相手へのダメージ)を上げることを意識するのだと思う。さらに三振による負けを少なくする意識があると思う。 
 さらに述べれば、投手の投げる球は組手における相手からの仕掛け技(攻撃技)に置き換えられる。
 他方、打者が投手の球を打つ技は、相手の攻撃技に対する「応じ技」に置き換えられる。そのように見れば、「野球における技と技能」も「武術における技と技能」も、それらが形成される裏面には多くのの勝負経験と「自己の技を高め、技を活かす技能」の養成に向けた試行錯誤と創意工夫があると思う。
 その創意工夫とは、野球の投手は、球のスピードに緩急をつけること。また、球を投げ入れる場所を散らすこと(配球)。また、直球と変化球を織り交ぜること。以上のような方法で相手(打者)との間合い、呼吸、タイミングを制し、予測できないようにしている。そのような打者に打たれない創意工夫を、私は投手の技を活かした技能の発揮の面だと考える。
 その技能を支える重要点は技の精度であろう。すなわちコントロールだ。そのコントロール(技の精度)があって初めて打者の間合い、呼吸、リズム(拍子)と予測を外す駆け引きが有効となる。
 他方、打者は、投手の間合い、呼吸、リズム(拍子)の引きずられないように自己の間合い、呼吸、リズムを維持する努力をしながら、投手からの「球種」と「コース」を予測していると思う。あるいは予測をしないでただ振るということも含めて判断と選択を行っている。そのような判断と選択には武道でいるところの「心法」、すなわち心の運用法を意識していると思う。その上で、投手の投げるどんな球にも的確に対応するための「技と技能」の準備をしているはずだ。優れた打者は、その準備をしてからバッターボックスに立っているのだと思う。
 私は、打者と投手の勝負を以上のように観る。もし、私の観方が正しければ、打者は練習と勝負において、多くの情報収集と分析を行なっているはずだ。その情報収集と分析があるからこそ、投手の投げる球を予測し、かつ、それに対応する技と技能を養成できる。また、そのようなバックヤードにおける作業と努力がなければ、優れた技と技能は養成されない。つまり、野球における情報収集と分析同様の作業が空手の組手修練と試合経験の裏側にも必要なのだ。
 補足を加えれば、投手にも多くの打者との試合による情報収集と分析があると思う。その上で、打者を制する投球術を磨くのだ。つまり、投手が技と技能を獲得するには、多くの打者との戦いの経験による情報収集と分析が基盤にある。
 ここで一番重要なことは、最高の技(投球)に対する志向性(志)と試行錯誤と創意工夫である。また、繰り返すようだが、打者の側からすると、打者は投手に百回の試合において六十七回は負けている。だが、野球の良さは、大量の試合経験を得られること、そして打者や投手にとっての明確なデータと意識を得られる構造があることだ。その構造により、野球選手は優れた技と技能を獲得するのである。
 私は野球における勝負を見て「野球の本質とは負けを知ること、すなわち、負けの経験を活かすこと」だと直感する。そして、「負けを活かす」ことができれば、負けとは「究極的な敗け」ではないと考えている。私の抽象概念だが、「究極的な敗け」とは、負けを活かせないことだ。
 私が拓心道空手の組手を指導する際、攻撃を仕掛ける際は「野球の優れた投手のように」また、攻撃に応じる際は「野球の優れた打者のように」ということがある。さらに試合経験の意義は目先の勝負に拘ることではなく、自他の関係性による勝負の情報を収集、かつ、分析するのだと伝える。
 要するに試合経験の分析により善く相手に対応し、自己を活かす理法(道)を自らの心身を基盤に探し出すことが大事だということだ。そのような心構えを有し、自己の心を活かす者の心身にのみ、優れた技と技能が生み出される。極論すれば、私は野球の本質と拓心道空手の本質が同じかもしれないと思っている。
 なぜなら、拓心道空手の本質は、負けを知り、その負けの経験を活かすことだからである。そして、その先にあるのは相対的な勝利ではない。拓心道空手が目指す境地は、自己が自他の関係性の中で「負けを知り、負けを活かすこと」である。負けを活かす境地に至れば、試合修練において敗けはない。
 私の眼には既存の武道における試合法における勝負の判定方法が検証不可能で稚拙なものに見える。結果、自己成長に必要な適正な「負け」を伝えることができない。結果、負けを知り、負けを活かすことができない。
 ちなみに、私の武術的感性に照らした投球の究極形は、「一球で相手をアウトにする」ことだ。また「打者が打たずにいられない球を投げ、それを打たせて制すること」のようなことだと言っても良い。

 

2022/12/14:一部修正

2023/1/10:一部修正

 

 

 

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