機に発し感に敏なること

吾々は武の真髄を極め、機に発し感に敏なること(極真会館道場訓)

上記の文言は、故大山倍達師範が創設した極真会館の道場訓の一つである。
「機に発し感に敏なること」の意味を増田が意訳すれば、「行動は機を捉えて始めること。そして、その感性を研ぎ澄ますこと」となる。別の言い方を試みれば、「目に見言えない機縁を捉えて行動せよ。そして、その機縁を捉える感性(良知良能)を研ぎ澄ますこと」と言っても良い。さらに意訳を試みれば、「機を活かす感性を研ぎ澄ますこと」となる。ここまで意訳すると少し解説がいるが…。
 武の先達の一人、柳生宗矩は、「機は気なり」と喝破した。つまり、「現実に内在する気を捉えること。そして、その気を感じる感性を高めること」と、言い換えても良いかもしれない(まだ私は、気を上手く説明できないが)。断っておくが、「機」や「気」には悪い「機」や「気」もある。その悪い「機」や「気」を避けること。また、時には転換するということを含意していることは言うまでもない。要するに、武の真髄とは、機を判断し、かつ、捉える事、また、その感性を磨き高める事なのだろう。

 今、極真会館の門弟は、その教えを守っているだろうか。私には、目先の損得で行動しているだけだと思っている。
「極真空手を正しく伝える」、そんな言葉をよく聞くが、その人たちは正しく伝えているのだろうか。
 大山倍達師範が入院され亡くなる前、「すぐに本部にきなさい」と、私は電話を受けた。その時、総裁室で大山総裁は、「極真会館の支部長になり、他の若い支部長と力を合わせ、極真会館を改革して言ってくれ」と言われた。また、「古い支部長は守りに入り過ぎている」と語っていた。

 もちろん、極真会館が分裂し、訳のわからない状況になっている昨今では、極真会館と極真空手を守ることは必要である。しかしながら、本当に極真会館と極真空手を大事にしてきたのか。私は、総裁がなくなる前に語られた内容からは、疑問符がつかざるを得ない。まず、大山倍達師範は修練体系と昇段体系を改訂したいと考えていた、その構想も人から聞いたが、その中には大山倍達師範が修練されてきた、柔術や武術の技を伝えるというような項目も入っていた。
 私はここ数十年、大山倍達先生の「秘伝 極真空手」を研究し、その技を解析してきた。私はその技術を修練体系に取り入れたい。しかしながら、私の道場生も含め、多くの極真空手家は、そんなことには目もくれない。
 私は、大山倍達先生が今も元気で存命ならば、修錬体系を改訂したと確信している。どのように改訂したかまで言えば、法螺吹きになるだろう。だが、あえて言えば、空手の原点に立ち戻りながら、同時に現代社会により貢献できるよう、新たな価値を唱えて、展開をされたに違いない。大山倍達先生には、その辺の嗅覚と言えば失礼だが、見識があった。まさしく「機に発し、感に敏なる」である。しかしながら、多くの凡人は自分の利益を守ることに汲々としている。

 今、私も凡人の一人だが、極真空手と極真会館を守り、次世代へ向け、よりよく継承するために微力ながら尽力したいと切に願っている。
 
 諸先輩に対し僭越だが、私は改革するべきところは改革すること。そして、将来の大いなる和解を目指し行動することが重要だと考えている。それが人の道だ。もちろん、自己保身、そして目先の損得で動いてはいけない。人と社会の気、すなわち機が変化することを前提としつつ、よりよく生きるという「良心」を中心にした感性を研ぎ澄ますことだ。その感性の働きににより行為の価値の永続性が担保される、と私は考えている。

 最後に、私は時々、大山倍達師範とのことを思い出す。私はここ数十年、大山先生の著書との格闘があった。だからいつも一緒である。
 振り返れば、私は時々、海外遠征の報告や大会入賞後のご褒美を頂くために総裁室を訪問した。時には自宅に呼ばれたこともあった。そんな身に余るご厚情を受けたことをとても大事なことだと思っている。
 また、長年連れ添った家内が大山倍達総裁の秘書を務めていたこともあり、自宅に電話が度々あった。秘書との結婚は大山倍達師範のみならず、周りにも隠していた。修行中の身で不徳だと思っていたからだ。私は悪い人間かもしれない。事後報告だったが、大山倍達総裁にその事を告げた時、少し驚いた感じだったが、「良い子だから大事にしなさい」と言われたことを覚えている。

 蛇足ながら、「極真空手と極真会館を正しく伝える」とは一体どう意味だろうか。私には理解不能だ。あえて正しく伝えるというならば、人と社会により価値の高いものとして存続させることが、正しくという言葉に含意されていなければならないと思う。ならば、現在の極真空手は本当に価値があるものなのだろうか。わたしには疑問である。

 2020/9/24:一部加筆修正

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