悟りを形にしていく(その3)

悟りを形にしていく〜その3

 

  1. 道場稽古の基本原則  (その1)
  2. 自己の中心を護る (その1)   
  3. 組手型修練の原則の詳細   (その2) 
  4. 「不動の中心」を掴み、絶対不敗の境地に立つ(その2)  
  5. 組手型と試合の修練は車の両輪の如し (その3)   
  6. 自己の中心を活かす対応 〜武士道(その3)
  7. 人間性を喪失していないか(その3)
  8. 悟りを形にしていく〜100人組手の修行 (その4)
  9. すべての物事に感謝する〜不敗への道(その4)
  10. 拓心無限〜身体を拓き心を高める(その4)


組手型と試合修練は車の両輪の如し

 
 ここで、私の組手型と試合修練の指導法について少し述べてみます。私が稽古の際、心掛けているのは、「組手型と試合の修練は車の両輪の如し」「自己(取り)は「攻撃技を仕掛ける相手の中心を自己の技(対応)によって奪う(取る)」という原則を伝えることです。

 さらに述べれば、本道場における武術修練とは、「自他の心身をより善く活かす理法(道)を求める修行」だということです。その修行の要点は、組手修練においては目先の勝ち負けに囚われず、その裏側にある道(理法)に着眼し、理合と一体化した技の体得を目指すことです。そのためには、皮相的な勝ち負けに一喜一憂するような組手稽古、試合稽古をしてはなりません。
 
 心がけることは、「組手型と試合の修練は車の両輪の如し」です。私が修練において目指すことは、道(理法)の感得という境地(目的地)への到達です。しかし、その境地へ到達するためには道(理法)を目指すための地図かもしれません。
 私にとっての地図は、武術のみならず、あらゆる分野の先達が残した文献と理論、そして型などです。私は、時にそれらの地図を見ながら、自己修行の中で地図を作りたいと思っています。そのような地図を見ながら自己修行を行うことが極真会館増田道場の空手道です。
 また、その地図が拓心武術の修練体系であり、拓心武道の思想なのです。さらに述べれば、先述した拓心武道の思想においては、試合において、規定(ルール)による勝ち負けが、たとえ宣せられても、その勝敗に一喜一憂してはならないと戒めます。
 極真会館増田道場におけるTS方式の組手法は、「技あり」を点数に換算し、規定時間内における点数の多寡によって勝敗を決します。しかしながら、試合後は感想戦によって、その「技あり」を吟味すること、すなわち、単なる勝敗ではなく、「技あり」を取った局面における技のレベル(制心−制機−制力の一致)を吟味、分析します。要するに、試合の勝敗よりも、試合の中で顕れた、技のレベルを判断、理解することが試合稽古の真の意味だということです。
 補足すれば、そのような感想戦、吟味を行うために「組手型」は「物差し」として使うものだと言っても良いでしょう。
 また、試合稽古は「生死を分ける局面」において理法(道)合致した技を使えるかを目指すために必要な稽古です。生死を分ける局面も絶えず水が流れるが如く変化しています。その流れの中で自己の中心を奪われないためにも、「制心」「制機」「制力」の一致した技の執行が必要なのです。
 それゆえ、組手型と試合修練において意識すべきことは、相手のみならず自己の中心と対峙することです。同時に、自己の中心を相手の動きや形に引きずられ、崩し、奪われることのないようにすることが必要です。
 言い換えれば、相手の中心を自己の中心と合致させ、、相手の中心のわずかな変化に気付き、かつ自己の中心の変化に心を配ることと言っても良いでしょう。さらに言えば、私が考える武道の修行とは、その自己の中心を他(自己以外の全て)に決して奪われることなく自己を維持することを目指すことです。

自己の中心を活かす対応と武士道


 武技と言わず、他によって自己に働きかけらる全ての技は、それによって自己の中心を奪われず、自己を失うことなく、「自己の中心を活かす対応」につながらなければならないと思います。もちろん、それができる人間は皆無かもしれません、しかしながら、私は人間には本来、そのような理法(道)を知っているはずだと思っています。例えば、生まれたばかりの赤子の中心は、その理法に則り、対応しているのではないかと思います。しかし、その無邪気でか弱い赤子に危害を加えようとするような行為に対し、自己の中心と心身を護るために創出され、かつ有事に発動される技と精神が日本武道と言えるものだ、と私は考えています。
 その精神と日本で育まれた神道、仏道、儒道の三道、そして道教(道教は日本の仏道に包摂されていますが…)の哲学が相まって醸成された武士の行動規範が武士道だと私は思っています。もちろん、武士の全てが高潔で高い人格を有する人間だとは思っていません。しかしながら、武士道を体現するような武士も存在したと信じています。また、その武士道に現代の価値観にそぐわない部分もあると思います。それでも、遺したい普遍的な価値を有する部分もある、と私は思っています。
 残念ながら、武士道の良い部分のほとんどが時代の荒波に飲まれ、変節していったように思います。
 その原因は、自我の成長・活かし方にあると思っています。もちろん自我の成長が人間の成長であり、また優れた自我は社会を発展させたりもするでしょう。しかしながら、その自我が社会を統べるために権力を形成し、かつ優れた権力者となり、その権力者が権力構造の中で変節していくのも事実だと思います。
 しかしながら、権力者の裏に働いている自我の決定、言い換えれば、判断と選択、そして行為が無邪気な赤子、すなわち弱者に対し、邪心に満ち、横暴なものだとしたら、皆さんはどう思いますか。よほどのことでなければ、「仕方ない」また「法に触れていなければ良し」というように判断するのですか。私は、そのような消極的な考えを肯定しません。もちろん、本当に仕方のないこともあるかもしれません。
 
人間性を喪失していないか
 私は、人間の判断と選択に偏見や好悪の感覚が混じっているとしたら、私の性質では納得できません。なぜなら、そのような判断と選択は、大袈裟かもしれませんが、赤子の心を踏みにじる行為と同等だと思うからです。ここでいう赤子の心とは、まだ可能性が残された弱者の心と言っても良いでしょう。
 そのような判断と選択、そして行為は、次世代と子孫に必ず、怨念と禍根を残すように思います。もちろん、私はそのような怨念や禍根を乗り越えていかなければならないとも思いますが、赤子の心を踏み躙られるような体験をした側からすれば、していない者がそのような上から目線で諭しても、果たして納得してくれるでしょうか。赤子の心を踏み躙られるような体験をした私には、納得できません。
 随分と大げさな話になりましたが、私がここで述べたいことは、自我が成長し、優れた理性を発揮する大人であっても、今一度、その判断と選択を理法(道)に照らして、人間本来の中心を見失っていないか、人間性を喪失していないかを見直す必要があると言うことです。また、繰り返しますが、自己の判断と選択が理法(道)から外れるのは、知識が増えたことによる損得勘定、そして偏見や好悪によって行われているからだと思います。
 さらに言えば、百歩譲って、人間に偏見や好悪が生じるのは仕方ないとしても、それを自己の有する何らかの「力(権力)」を背景に押し付けるのはよくないことだと思います。かく言う私の論も私の偏見や好悪だと思われる方がいるなら、私は耐え続けるだけです。ただ、そんな人間の在り方が、有史以来、さまざまな理不尽、争い、葛藤を生み出してきたのでしょう。私は、これからも我が国が育んだ武の先達と時空を超えて対話し続けます。
 これまで、私のバックボーンである極真空手は、組手の際、相手に突き蹴りを当てるという修練方法を唱えてきました。また、突き蹴りを一撃必殺のものとせよ、と教えてきました。そのことは、弱い身体と対峙し、それを鍛錬し強化するという意義はあると思います。しかしながら、技の威力を高めるための身体鍛錬のみを行なっても技は身につかないでしょう。私は武術の技を高めるための身体鍛錬ならば、自己の身体の限界に挑む身体鍛錬においても、自己の中心を掴むことを意識しなければならないと思っています。
 それは「私は強い」と無理やり信じるためのものではなく、人間と自己に内在する本当の強さを自覚することです。言い換えれば、「私は(心身)は弱い」あるいは「私は強い」と言う認識、そのどちらの認識からも超え出ること。すなわち自己の心が作る限界や壁を乗り越えることです。

(次へ続く)

2022年8月24日:一部加筆修正
2022年8月28日:一部修正
2023年2月23日:一部加筆修正

 

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