サッカーW杯を見て2022を観て

サッカーW杯を見て2022を観て


「日本の若者も捨てたもんじゃない」「フラットなコミュニケーションを大事にする森安監督のような指揮官の登場」

 日本全体が日本がサッカーのW杯で盛り上がった。もちろん、サッカーを見る暇もない人、サッカーに興味のない人もいるだろう。他方、もう走ることもできない老いた私だが、サッカーW杯で勇気をもらった。私はサッカーのみならず、メジャーなスポーツが好きだ。それはミーハー的な好みではない。メジャーになるにはメジャーになる要素があると思うからだ。と同時にマイナーでも良い点があると思うが、その点を活かす必要があると思っている。
 また、私には単純にスポーツを楽しむ面のみならず、他のスポーツから学ぶという意識がある。要するに勉強のために見ている。それは、熱狂的なファンからは邪道だと思われるかもしれない。だが、多くのファンと同様、スポーツを余暇の楽しみとしてのみならず、選手やその戦う姿から人生の学びと気付き、そして勇気を得ている。そんなスポーツのあり方(価値)から私は学ぶことが必要だと思っている。

 換言すれば、選手たちの「情熱」「技能」「闘争」、ファンの「熱狂」の中に我が人生と空手に学ぶことが多くあると思う。残念なのは、空手界の人たちが、他のスポーツを理解しているとは思えないからだ。もし、メジャースポーツの価値を理解しているなら、空手は変わっているはずだ。おそらく、空手界の人たちの多くは、他のメジャースポーツを全く別物と考えているか、それを否定するかのような価値を大事にしているのかもしれない。それを差別化と言えば、差別かもしれないが、私はそう考えない。

 私は、人を集めて何かを行うならば、サッカーのみならず、他のメジャースポーツに内在する「価値」をもっと分析する必要があると思う。その理由は、人間の「情熱」「信念」「技能」の発揮と昇華を通うじ、「感動」や「勇気」、そして「相互理解」と「連帯」を促す力を創り上げるためだ。

 私のいう「感動」や「勇気」、そして「相互理解」と「連帯」という「価値」は、活かし方次第では、社会をより善くしていく作用がある。ただし、活かし方を間違えると悪くもなる。だが、先述した「価値」を生み出す構造が民主的である必要がある。そうでなければ、手段が目的化し、その行為と場所で得られた「感動」や「勇気」、そして「相互理解」と「連帯」は排他的、かつ閉鎖的なものとなる。私は、スポーツとは民主主義のリトマス試験紙のようなもの、また試験管だと思う。もちろん民主主義が完全無欠なものだとは思っていない。
 脱線するが、今回のW杯でも、オランダとアルゼンチンの試合で選手同士で乱闘寸前のような状況になった。また、ベスト4以降も選手間のみならずサポーター間においても問題が起こる可能性がなくもない。そんな状態が良いのか、と思われる人も多いと思う。その部分がサッカー嫌いの人の共通項もしれない。テニスやラグビーでは、極力、紳士的に振る舞うことを歴史的に要求されるようだ(例外もあるだろう)。この点に関しては、ナショナルを掲げているW杯では、相手や敗者に対する尊重は必要である。ゆえにジェントルマンシップは必要不可欠だと思う。国内大会においては、ある程度の対立は国内で浄化されるから良い。だが、国と国とを掲げて戦うW杯では厳禁である。
 しかしながら、そのような点を許容するのも民主主義かもしれないと思っている。だが、スポーツが資本主義の道具に堕すことなく、その理念を高め続け、人類の精神的な成長と個の尊重を謳う民主主義に貢献していくためにも、紳士的なチームが優勝する必要があると思っている。

 私は、アソシエーション・フットボール(サッカー)とは、まさしく民主主義が世界に浸透していく、プロセスとこと軌を一にしているのと思っている。だが、問題があるとすれば、資本主義とあまりにも結びつきすぎて、民主主義の原点を忘却した時に危ういと思う。

 話を戻して、まだ終わっていないサッカーW杯の感想を述べておく。現時点において、私が興味深いのは、サッカーの審判と選手たちの違和感である。おそらく、W杯後、サッカー通の間では論争があるかもしれない。それは審判の反則の取り方によるゲームへの影響である。
 換言すれば、「反則の取りすぎ」あるいは「反則を取らないこと」による、ピッチ上の選手が感じたゲームの流れ、リズムへの影響、または違和感だと言っても良い。それがアルゼンチンのメッシ選手やポルトガルのぺぺ選手による審判に対する異議の本質ではないかと思っている。
 そのことと同じではないが、私が着目するのは日本代表の吉田麻也選手の発言である。吉田麻也選手が今回のベストプレイを聞かれて「イエローカードの出し方に対し審判に粘り強く異議を伝えたこと」という主旨のことを述べていたようだ。また、吉田麻也選手は語学が堪能だという。その話を家族から聞いた時、私の中で森安監督の若かりし頃のインタビューの映像と繋がった。森安選手(監督)は、サッカーの魅力を聞かれた「サッカーの魅力はチームプレイですかね」と答えていたように思う。私は、今回ミスがなかったとは言えないが吉田麻也選手が、チームを支えていたように思う。彼の高いチームとサッカーに対する意識が日本チームの躍進を生み出したと言っても過言ではない。
 補足すれば、ディフェンスにミスがあったと言っても、オフェンスにおけるミスの方が圧倒的に多いのが通常だ。ただ、ディフェンスの失敗は失点につながるので、印象に残るだけだ。その意味では、今回の日本チームは吉田麻耶選手のみならず遠藤選手や全員がディフェンスを頑張ったと思う。同時に前田大然選手や浅野選手、堂安選手、田中選手、三笘選手、などオフェンス面でも情熱的、かつ創造的なプレイを見せてくれた。また、忘れてはならないのはキーパーの権田選手のスーパーセーブだ。

【私の空手理論とサッカーを重ねて観た感想】

 ここで私の空手理論とサッカーを重ねて観た感想を述べておく。「攻防一体」は私の武道理論における戦術原則の一つである。また「応じ」という戦術概念と同じものである。その「応じ」の戦術概念を応用してサッカーの戦術を以下に定義してみたい。サッカーにおける「応じ」とは、「相手からのパス(攻撃)を防御(インターセプト、ターンオーバー)し、相手の陣形を無力化、あるいは弱体化するようなパス(攻撃)、あるいは攻撃を行い、相手陣形を崩し、かつゴールを決めること」となる(サッカーにおけるターンオーバーの意味はラグビーやバスケットボールとは異なるらしいが、相手のボールを奪い取って反撃することはターオーバーと言った方が良いだろう)。
 おそらく、私の定義はサッカーの一流の選手にとっては当たり前のことなのだろう。そのことを前回のW杯でも実感した。だが今回のW杯では、空手の理論書を書いていた最中だったので余計にそう感じた。また、そのような基本原則が空手の競技では理解されていないことも。私にはもう残された時間は少ないが、このことを突き詰めて、理論と実技を残しておく。


【にわかファンが何をいう】

 最後に「にわかファンが何をいう」と思われるかもしれないが、私は森安監督の続投を望む。なぜなら、森安ジャパンのコミュニケーション重視のあり方は、閉塞感漂う日本のあり方に打開策を見出す気づきになると期待しているからだ。さらに日本の若者が日本から世界へと自由に飛び出し、他国に人達と対峙し言葉によって交流することに期待している。そのことにより、自己、そして日本の活かし方が理解できると思うからだ。
 そのためには、若者を活かすことのできる日本人の監督が必要だ。その理由は、サッカーW杯の優勝という目標は、日本人の変革でもあるからだ。その変革のためには「苗木」を一次的に移植するような外国人監督の起用は考える必要があると思う。私は、監督をはじめ、まずは「土づくり」、すなわち「土壌改良」だと思っている。その点で川淵氏が率いたJリーグの発足は「土壌改良」と言っても良い。また、その草創期、JFAは外国人監督を起用したこともある。その理由はあるのだと思う。だが、これからは、日本独自の選手、そして監督、チームを作っていく必要があるのではないか。もちろん、そのぐらいのことはJFAの人達がわかっていないはずもない。
 さらに調子に乗って述べれば、日本選手の「技(技術)」は、現時点では海外の超一流には劣るが、いつか追いつき、日本から世界の超一流選手を生み出すことも可能だと思う。また、私はそのことを全てのスポーツ選手に期待している。必ず、日本の若者はやれる。ただし、注意すべき点は、年配者に若者の感性を受け入れ、活かす感性、そして土壌がないといけないと思う。

 繰り返すが、今回の森安監督のチーム作りの基盤には、サッカーの技術のみならず、コミュニケーション能力を重視していたのではないかと思っている(海外組は大体コミュニケーション能力は高いと思う。例えばキーパーの控えの川島選手なども見えない支えとなっていたと想像する)。
 もちろん、我の強い一流選手が意思の疎通を図るということは困難だと思う。だが、サッカーという競技が意思の疎通という志向性が根底にあるからこそ、技術を活かす「技能」というものを生み出すのだと私は考えている。換言すれば、個々の選手の中に、他者とコミュニケートするという意識があるからこそ、チームとしての技能が発揮されることを身体で理解しているのだと思っている。断っておくが、私が少し上から目線なのは、「技能」という概念が私独自の概念だからだ。私は、サッカーのみならず、ラグビー、そしてバスケットボールに至るまで、ボールを媒介としたチームスポーツには、個々の「技(技術)」のみならず、他者の「技」と自己の「技」とを一体化させる志向性・意識が必要だと思っている。また、1個のボールを共有するスポーツでは、その志向性・意識が生まれやすい。そして、その志向性・意識を他者と共有し、かつ他者と自己とをうまくコミュニケートさせた者、その上で個の技術を活かした者が超一流のプレイを見せるのだと思う。蛇足ながら、日本人は他の技術を真似ることは上手い。しかしながら、技術と技術、元素と元素を掛け合わせ、化学反応を起こさせるような志向性・意識に欠けると思っている。私はその点を変革して欲しいと思っている。

 

 

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