大機大用(だいきだいゆう)
大機大用(だいきだいゆう)
2013年01月21日/アメーバブログ増田章の身体で考える/テーマ:武道、空手について/大機大用(だいきだいゆう)より転載
拙著「フリースタイル空手」を上梓してから、早くも6年が経った。その後の修行で、理論や定義、すべての面で、修整したい点が見つかった。私には、事を急ぐという悪しき性癖があるようだ。弁解を許していただければ、それほど、私には時間的余裕がなかった。物事の研究には、情熱と志、時間と資金、そして能力が必要だろう。現在もそうだが、私に最も欠けているのは、資金と能力である。拙著に関しても、できれば、修整を加えたい(DVDも含め)。
現在、新しい組手法、競技方法の構想がほぼ纏まった。後は、修練の理論と体系化を急ぎたい(力尽きる前に)。
今回いくつかある修正点の中で「機」の概念を見直してみたい。
拙著では「機」を戦いのリズムを掴むためのもの、すなわち最善のタイミングを掴むための概念として示した。その背後には「機会」という概念があり、それらを時間的概念に属するものとして捉えていた。その直観がすべて間違っているとは思わないが、時間の概念も含め、もう少し掘り下げたいと考えている。そのことを掘り下げる糸口として、先ずは柳生宗矩の「兵法家伝書」を再読している。その中で、柳生の示した「機」と言う概念に触発され、新しいひらめきがあった。それを記しておきたい。
『~刀は体である、切る、突く、は用である。それゆえ、機は体である。機から外に現れて様々な働きがあるを、用(ゆう)と言うのである~以下省略』(兵法家伝書/五輪書・原本現代語訳・ニュートンプレスよりより)。
『機というのは、心の内で油断なく、物事に気をはたらかせている状態をいう。だから、その思い詰めた機が、心の内に鋳型のように凝り固まっていては、かえって機に束縛されて不自由である。これは、まだ機が熟さないからである。
十分な修行をつめば機が熟し、全身にゆきわたっても自由なはたらきをする。これを大用という』(兵法家伝書・下巻・無刀の巻/五輪書・原本現代語訳・ニュートンプレスより)
また柳生はこうもいう。
『内にかまえて思いつめたる心の状態を志しという。内に志しがあって外面に発して現れるのを気という』(兵法家伝書・上巻・殺人刀/五輪書・原本現代語訳・ニュートンプレスより)
不遜にも、私が現代的に解釈すれば、柳生の示した「機」とは意識のことである。そして、その意識には「大機」という「潜在意識」の領域と「機」という「顕在意識」の領域に属するものがあるという風に捉えて良いのではないかと考えている。
さらに志というのは「潜在意識」までに浸透した意識のことである。
また、心というのは、それらの意識を生み出す機能、そのものを指す。断っておくが、ここで言う潜在意識とは、自分という小宇宙のみならず、自他すべてを包括する、大宇宙に繫がっていると考えられる意識のことだ。
私は兵法家伝書の目指すところは、武芸を通じた、「円転自在(自由自在)」の境地であると考えている。それを自己の確立、人間完成と換言しても差し支えないと思う。
また兵法者が、自己を円転自在にして、世に貢献することができるよう説いていると感じるのだが・・・(もう少し精読しよう)。
私流の拡大解釈では、柳生が観た「大機」とは、行動を生じさせている根源的な領域のことをさす。さらに、大機が熟すれば、最善(真)と例えられる程の用、すなわち、最善の考え方や行動が生まれるものだという示唆を与えたいのではないだろうか。
ゆえに兵法者は、人間の心に精通しつつ、大機を耕し、大用を創出するよう心がけるのだと、後人に伝えているように思う。さすがに、徳川300年の礎に貢献する兵法者の宇宙観である(私のようなアウトサイダーとは違う)。
これで時間切れだ(今回の思索は)。これでひとまず思索を中断する。私は柳生宗矩の「兵法家伝書」を日本兵法の最高峰と考えるものである。
いつになるかわからないが、いずれ「兵法家伝書」を含め「機」について思索を行ないたい(再考する)。
【備考】
2020/9/24:この時、私は「機」を「意識」としたが、「意識とは何か」、また、他に「機」を言い表す言葉、表現がないか、再考したい。
現時点では、私の考える「意識」という定義と、一般的な「意識」の定義には齟齬があるかもしれない。私の考えた、意識とは無意識という概念を含めたものである。ゆえに脳科学的な定義と混同すれば、齟齬を生じるに違いない。ただ、人間の顕在意識を超えるような大いなる意識(機)が我々を包み込んでいるように私は思う。近いうちに、意識について考究してみたい。